アメリカの大統領選挙であったとされる不正とは改めてみるとどういったことなのだろうか―不正と適正のあいだの分類線の揺らぎ

 アメリカの大統領選挙で不正があった。ドナルド・トランプ大統領をはじめとしていろいろな人がそれを言っている。そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。

 それぞれの人によっていろいろに見なせることはまちがいないが、一か〇かや白か黒かの二分法で見ないようにしてみたい。二分法で見ないようにできるとすると、不正そのものと適正そのものにはっきりと分けないようにすることができる。そこには微妙さがからんでくる。

 ものごとを対称でとらえられるとすると、トランプ大統領が選挙で負けることになったから選挙で不正があったとうったえるだけでは非対称だ。トランプ大統領が選挙で勝つことになったとしても、選挙で不正があったと言うのでないと対称にならない。どちらにおいても不正があったと言うのでないと対称にはならず、トランプ大統領が負けることになったときにだけ不正があったと言うのは、負けることを受け入れたくないだけなのではないかとかんぐれる。

 選挙で不正があったのだとは言っても、じっさいにトランプ大統領はそれなりに支持されていて票を得ているのがあり、そのことをどのように意味づけるのかがはっきりとはしない。選挙の結果はわずかな差の接戦となっているのがあるから、どちらが勝ったとしてもそれほどおかしいことではなく、それをうら返してみればどちらが勝ったとしてもよかったともいえる。乱暴に言うことができるとすると、どちらでもよいのだとも言える。どちらもそれなり以上に支持されている。一人勝ちといったことではないだろう。

 必然性と可能性で見てみられるとすると、トランプ大統領が必然として勝たなければならなかったとは言えないものだろう。勝つ可能性もあり負ける可能性もあった。必然性によれば、トランプ大統領が勝つのが正しくて負けるのはまちがっているが、可能性によれば勝ったとしても負けたとしてもどちらであっても正しいことになる。トランプ大統領が何が何でもどのようなことがあったとしても勝たなければならない必然性はない。

 何が何でもトランプ大統領が勝つのでなければならないとするのは、政治家の個人に焦点を当てすぎだ。政治家の個人にあまりにも強く焦点を当てすぎるのはあまりよいことではない。それがあまりよいことではないのは、個人にはできることの限界がかなりあるからだ。個人はそれほど大したことができるものではなく、あまり上げ底にして過大に評価するのは考えものだ。政治家の個人を不用意に持ち上げすぎるくらいであればその逆に評価をさし引くくらいのほうがよいだろう。政治家との距離を近づけるのではなくて一定より以上の距離を空けたほうが安全だ。汚いところや悪いところが少しもない政治家はまずいそうにない。

 何が不正であり何が適正であるのかは、多義性やあいまいさがある。国の選挙はほんとうにぴったりと適正なものとして行なわれるのだとは言いがたい。ほんとうにまさに正義そのものであればちょうど(just)だが、そういったぴったりと正義そのもの(justice)であることは現実にはおこりづらい。

 理想論としてはちょうどの正義そのものであることがいるのだとしても、現実論としてはそこからずれがおきてくる。制度および実践のずれがおきる。トランプ大統領が言っていることとは別に、どちらにせよ現実論としては選挙のさいには広い意味での不正(汚いこと)は色々に行なわれているのだと見なせる。理想論による完全にきれいな中で行なわれているとは言えそうにない。

 みんなが完全にうなずけるような結果が選挙で出ることはあまりない。ある人たちはうなずけて、ちがう人たちはうなずけない。そう分かれてしまうことが少なくない。選挙が不正か適正かのあいだの分類線はまちがいなく引かれているとはいえず、その分類線は揺らいでいる。不正とはいっても大きな物語にはならずに小さな物語にとどまり、通用性が必ずしもないことがある。逆もまたしかりで、ほんとうにまさに適正そのものだとするのも通用しづらい。

 選挙が行なわれるさいちゅうにはいろいろな汚染された情報が流される。情報の中に意図が入りこむ。作為性や政治性がある。情報政治が行なわれることになる。大衆社会の中で大衆が情報に流されてしまい、適正な判断ができないことがおきてくる。大衆迎合主義(populism)が引きおこる。それを避けることができづらい。

 何がほんとうのことなのかでは対応説と整合説と実用説があるとされるが、トランプ大統領が置かれている文脈からすれば、選挙で不正があったのにちがいないと見なしたくなることはわからないではない。トランプ大統領の個人の気持ちをくみ入れられるとするとそうしたことが言える。これは語用論(pragmatics)で見たさいのものだ。語用論では送り手の置かれている個別の状況や文脈をくみ入れるようにすることが行なわれる。

 語用論で見ればトランプ大統領が選挙で不正があったのにちがいないと見なすことはわからないではないが、実用主義(pragmatism)をもち出せるとすると、あくまでも実用の点から見てみられるとするとトランプ大統領が大統領の地位にとどまりつづけるためにねばりつづけるのは実用にかなわないところがある。不毛な争い合いが引きつづく。

 さしあたってはトランプ大統領が大統領の地位をジョー・バイデン氏にゆずって、そのうえで大統領の選挙の不正についてをうったえて行くのでもよいものだろう。もしも有無を言わさないほどの選挙の不正の客観の証拠(evidence)となるものがあるのであれば、それがあることは揺らがないのだから、そのことはトランプ大統領が大統領の地位にとどまりつづけようが退こうが変わりはない。トランプ大統領が大統領の地位に何が何でもとどまりつづけようとする実用における意味あいはそれほどないのではないだろうか。

 裁判にうったえることをトランプ大統領はさぐっているようだが、たとえ裁判にうったえるのだとしてもそこではっきりとした真相が明らかになるとは言い切れない。裁判は神のような真実を明らかにするところではなく、裁判官は人間だから合理性に限界をもつ。裁判でどのような判決が出たとしてもそれが神のような真実だとは言い切れないし、たった一つの正義だけではなくていろいろな複数の正義があることはいなめない。

 参照文献 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『論理的に考えること』山下正男 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典 『情報政治学講義』高瀬淳一 『社会問題の社会学赤川学 『裁判官の人情お言葉集』長嶺超輝 『本当にわかる論理学』三浦俊彦