自民党の総裁選が大々的に報道で報じられていることのまずさ―公共性の欠如

 総裁選が行なわれる。与党である自由民主党の長にだれが選ばれるのかが決められる。テレビなどの報道機関は総裁選についてを大きくとり上げている。そこにまずいところはないのだろうか。

 まずいところとしては、あくまでも自民党は色々にある政党の中の一つにすぎず、日本の全体ではなくて部分を代表するのにとどまる点だ。また、目だちやすい(high profile)ところをとり上げすぎることで、目だちづらい(low profile)ところがとり落とされてしまう。

 たしかに、実質としては自民党の長として選ばれた政治家が国の首相になるから、国の首相を選ぶのに等しいのはあるだろう。そこから自民党の長を選ぶ総裁選に重要さがあることは否定できない。

 国民の知る権利が満たされることがいるから、自民党の総裁選が報道で大きくとり上げられるのは、その必要性があるといえるものではあるだろう。必要性がそれなり以上にあるから、それが大きくとり上げられることが許容されてもよいのはあるかもしれない。

 お祭りみたいなふうに自民党の総裁選が盛り上がるかたちでとり上げられるのは、そこに少なからぬまずさがあるのはいなめない。表ではいったいだれが自民党の長に選ばれるかが盛り上がるかたちでとり上げられるのはあるが、表だけではなくて裏も見ることがいる。

 表で行なわれていることは、いろいろな穴が空いているのをおおい隠すためのおおい(cover)としてはたらく。そのおおいをとり外してみると、ほんらいは開かなければならない臨時国会が開かれていない。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への対応においていろいろな政策の失敗がおきている。医療がひっ迫していてゆとりがなくなっていることで、医療関係者はたいへんな労働を強いられているし、国民の(一部の)生命が危機にさらされている。

 あくまでも日本の部分を代表するのにとどまるのが自民党だが、日本では自民党が好かれているので、あたかも自民党が日本の全体を代表するかのように見なされている。そこにおかしさがある。いくら自民党の長が実質として国の首相になるのに等しいからといっても、自民党を日本の全体を代表するかのようにあつかわないようにするべきだ。脱全体化や脱中心化されなければならないものだろう。

 大々的に報道で報じられることで、総裁選の候補者や、自民党そのものが目だつことになっている。目だつか目だたないかでは、目だつものに価値があり、目だたないものには価値がない、といったようには比例しない。むしろ反比例することが少なくない。

 公共性においては、共通している(common)ことと開かれている(open)ことと公式である(official)ことがいる。すべての日本人が自民党をよしとしたり支持したりしているのではないのだから、あたかも日本人のすべてが強く関心や興味を抱いていることがらであるかのように報道で取りあつかうのには首をかしげざるをえない。あくまでも一部の人たちが自民党をよしとしたり支持したりしているのにとどまるのだから、そうではない人への配慮がいる。

 いくら相対としては多数から支持されているとはいえ、自民党をよしとしていなかったり支持していなかったりする人たちもいるのだから、公共性においてはそこへの配慮が求められる。そこへ配慮するためには、ただたんに総裁選を盛り上がるかたちでとり上げるだけではなくて、総裁選とはちがうほかのさまざまなことをいろいろにとり上げて行く。

 総裁選をとり上げるのにしても、自民党の利益になる形(自民党を宣伝する形)でとり上げるのではなく、これまでの自民党による政権のさまざまな政策の失敗や不祥事をとり上げて行く。そういったことがなければ、公共性を十分に満たした報道が行なわれているとは言えそうにない。いくら日本では自民党が好まれているからといって、そのかたより(えこひいき)をそのままにして、自民党の宣伝をそっせんしてになうといったような報道が行なわれている現状からすると、きびしく見れば報道のあり方に公共性が欠けているといえる。

 参照文献 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)