フェミニストであれば女性の候補者を選ぶべきなのか―事実と価値

 フェミニスト(feminist)であるのならば、女性の候補者を選ばないとならない。与党である自由民主党で総裁選が行なわれるが、そのなかで女性で右寄りの候補者がいるのを、フェミニストであれば選ばないとならないのだと言われている。

 たしかに、フェミニズム(feminism)では女性をよしとするのがあるから、それからすると自民党の総裁選で女性の候補者をよしとして選ぶべきだとするのはわからないことではない。ただその女性の候補者が右寄りの思想を強くもっているので、フェミニズムとはそぐわないところがある。

 女性の候補者であるのなら、フェミニストはその候補者をよしとして選ばないとならないのだろうか。そのさいに、哲学の新カント学派の方法二元論によって事実(is)と価値(ought)を分けて見てみたい。

 事実と価値を分けて見たさいに、総裁選の候補者が女性であるのはたんに性別の属性の事実であるのにすぎない。いくら事実をくわしく知ったとしてもそこから価値は出てはこない。価値はまた別の話になるのである。

 ある人がフェミニズムの思想をいだくフェミニストだからといって、それはたんにそうした事実があるとは言えるが、そこからその人がよいとか悪いとかといった価値は出てはきづらい。憲法の第十九条でいわれている思想(thought)や信条の自由があるから、個人がどのような思想をよしとしていたとしてもそれはあくまでもその人の自由にまかされている。

 フェミニズムとひと口にいってもその中には色々なものがあるだろう。中にはいろいろな派があるからそれらを一くくりにはできづらい。玉もあれば石もあるといったことがあるので、範ちゅうと価値を分けることがなりたつ。

 女性の属性であるのは範ちゅうに当たることであり、その範ちゅうの中にはいろいろな価値が含まれている。いろいろな価値が含まれていることから、女性の候補者であればよいとはなりづらい。女性の候補者でありさえすればそれでよいとするのは、範ちゅうの中の価値がどうかの点をとり落としている。いわば、日本人でありさえすればすべての人が善人だと言うのにひとしい。それは現実には大きなまちがいである。

 事実と価値を分けて見てみたさいに、女性の属性である事実から価値を導いてしまうと自然主義の誤びゅうになる。フェミニズムは女性をよしとするものだから、自然主義の誤びゅうになるところがあるかもしれないが、これは修辞学でいわれるわら人形攻撃(straw man)が用いられているととらえられる。

 女性の属性でありさえすれば正しいとするのは、どちらかといえば発想としては男性ふうのものだろう。一か〇かや白か黒かでものごとを割り切るのは男性ふうの発想だと言える。それとはちがい、女性による発想はもうちょっと柔らかいものであり中間をとるものだと見なしたい。

 こり固まった男性ふうの発想にいかにおちいらないようにするのかが大事な点だろう。たとえフェミニズムをよしとするのだとしても、それだからといってごりごりの厳格主義(rigorism)でなければならないとは言えそうにない。あたかも冷たい機械のようにものごとをとらえて行かなければならないのではなくて、血の通った人間味のある揺れ動きがあってよいものだろう。

 女性であるか男性であるかの属性は事実によるものだけど、それは置いておくとして、価値がどうなのかについては割り切ることができづらい。事実がどうなのかから自動で価値が導き出されるのではない。あたかも事実から価値を自動で導くものがフェミニズムなのだとするのは、わら人形攻撃になっているところがあり、純粋なものや単純なものとしてとらえすぎだろう。

 たとえフェミニズムをよしとする人であったとしても、価値がどうなのかにおいては、あるときはフェミニズムをよしとして、あるときはそうではないといったようなあり方であってもよいはずだ。価値がどうかにおいては、一時的にフェミニズムからの自由があってもよいのがあり、いついかなるさいにも少しのすきもなくフェミニズムに強くしばられなくてもよいのではないだろうか。

 たとえば神さまを信じるのにしても、うたがいつつ信じるといったことは少なくなく、あい反するものが心の中で同時にあることはめずらしくはない。価値がどうかについては一神教のようにではなくて価値の多神教として見るのがふさわしい。

 参照文献 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信