結婚や家族はこうあるべきだ(こうでないとならない)と、どうあるべきかということ―結婚や家族の範ちゅう(集合)と価値

 結婚をすると自分の姓が変わってしまう。それはいやだ。そういう人がいるから、姓が変わらないようにするには、夫婦別姓の導入があるとよい。野党の党首は国会でそううったえた。

 そのうったえをしていたところ、やじが飛ばされた。それが嫌なのだったら結婚をしなければよいというのである。このやじを飛ばしたのは与党である自由民主党の議員だと見られている。

 やじを飛ばした自民党の議員は、夫婦が同姓である結婚や家族のあり方を自明としていることからやじを飛ばした。そう見なせるとすると、そこには疑問をさしはさむことができる。

 夫婦が同姓である結婚や家族のあり方は必ずしも自明であるとは言いがたい。そういう結婚や家族のあり方でなければ、結婚や家族がなりたたない(なりたたなくなる)とは言えないものだろう。色々な結婚や家族のあり方があってよいはずだし、国家が結婚や家族はこうあるべきだという価値を一方的に国民にたいして押しつけるのは正しいことだとは言えそうにない。

 構築主義で言われていることを当てはめられるとすると、結婚や家族のあり方は自然なものではなくて人為に構築されたものだから、それを可変のものだととらえることがなりたつ。どういう結婚や家族のあり方が国民のそれぞれにとってのぞましいのかについてを議論をすることができるから、色々な意見が出されることがのぞましい。かならずしも、こうでなければならないという、ねばならないの思考におちいることはいらないことだ。

 夫婦が同姓ではなくて別姓なのだとしたらそれは結婚や家族ではない。そう見なすのだとすれば、それは結婚や家族についてを価値として見なすことになる。その価値が正しくはなくてまちがっていることがあるから、範ちゅうとして見ることもいる。夫婦が同姓ではなくて別姓であっても、そういう結婚や家族のあり方もまたありえるし、そのほうがよいという人もいるのだから、範ちゅうとして見たらおかしいことだとは言えそうにない。

 参照文献 『構築主義を再構築する』赤川学 『政治の哲学 自由と幸福のための一一講』橋爪大三郎 『女ざかり』丸谷才一