(おそらくではあるが)お互いに愛し合っているいっぽうで、世間の一部からは軽べつされてしまっている(軽べつされるのに値するのかどうかはよくわからない)

 天皇家に属する女性である眞子さまが、一般の男性と結婚をすることをのぞむ。この男性とその母親について、きびしい意見が投げかけられている。

 この男性と母親は、母親の元婚約者とのあいだに金銭の借金のもめごとがあると報じられている。紛争をかかえているのだ。

 金銭をめぐる紛争を抱えていることもあって、男性と母親について、人間性が駄目だとか、天皇家にふさわしくないといったことが言われている。人間性というのは定性(質)によることであって、客観とは言いがたいのはある。

 定性(質)として、人間性が悪いというふうにしてしまうと、したて上げることになる。このしたて上げるのは正しいことだとは言い切れないものだ。本当に人間性が悪いことはないではないかもしれないが、悪いところだけを見ていたり、まちがって意味づけしていたりすることがある。こういうものだというふうに悪く対象化しているとすれば、それは現実そのものだとは言いがたい。

 眞子さまの両親である秋篠宮のご夫妻は、結婚に反対しているとの報道がある。本当のところはよくわからないが、一般的に言って親というのは保守的なものだ。保守的なあり方によって、結婚について難色を示しているのではないだろうか。

 結婚の相手となる一般の男性とその母親が、いったいどういう人間性なのかとういのは、あくまでも定性(質)によるものであって、客観とは言えそうになく、また仮説にとどまっている。絶対の真実というのではないだろう。よい人間性を持っているのかもしれないし、そうではないのかもしれないが、いずれにせよ仮説によるのがあるし、動機論の忖度をしてみてもあまりしようがないところはある。動機がまったくもって純粋だということはそもそも考えづらい。

 もし一般の男性との結婚を強くのぞんでいるのだとすれば、もっとも気の毒なのは眞子さまなのではないだろうか。まわりからの反対の声が強いことで、結婚することを断念せざるをえなくなるのだとしたら、のぞみがかなわないことになる。

 よほどとんでもないことがあるのでないのなら、のぞみがかなったほうがよいような気がする。それで悪い結果になることはないではないかもしれないが、そうと決まっているのではないだろうし、また眞子さまの判断が絶対にまちがっているとは言い切れそうにない。

 眞子さまの判断がもしかするとまちがっていて、一部の世間から投げかけられている批判の声や、両親の言っていることのほうが正しいということはないではない。そうであるとしても、結婚することを断念せざるをえなくなることで、あきらめがつかなければ眞子さまが犠牲になる。

 眞子さまの(憲法が保障している)幸福追求権はかなえられることがのぞましいが、それがかなえられないとして、うまくあきらめをつけることができるものかは定かではない。

 眞子さまと一般の男性が結婚することが、よいのか悪いのかというのは、絶対によいとか絶対に悪いとは言えそうになく、条件によるものだと見られる。この条件というのは色々あるだろうから、そこがむずかしいところだ。

 日本では、西洋とはちがい、絶対の主体ではなく関係の主体によっているという。関係の主体によっていることで、自立した個人と見なされるよりは、関係がものを言うようになる。まわりの空気や雰囲気がどうかというのが関わってくる。まわりの空気や雰囲気が悪ければ、祝福することにはつながりづらく、それを押してでもということが成り立ちづらい。このさい、まわりの空気や雰囲気がまちがいなく正しいものかどうかは定かとは言えそうにない。気であって、理とはまたちがうものであることがある。

 参照文献 『法律より怖い「会社の掟」』稲垣重雄