自由主義であるリベラルはまとまらないといけないのか(そうしないと絶対にいけないのかは、定かとは言えそうにない)

 与党や右派に立ち向かう。多数派である与党や右派に立ち向かうには、リベラルの勢力はみんなで連携し合うことがいる。ばらばらでは太刀打ちできづらい。こう言われているのがツイッターのツイートであったのだが、たしかに数ということではまとまったほうが有利なのはあるだろう。

 リベラルというのは自由ということだから、数を多くするためにまとまることによって、自由が損なわれてしまうのはいなめない。みんながまとまって同じ者として集団化して協力し合うのは、どちらかというと他律(ヘテロノミー)であって、自律(オートノミー)とは必ずしも言えないものだ。

 いまの与党である自由民主党のあり方をはたからうかがってみると、他律になっていて、自由が損なわれているのがある。何々への自由である積極的自由はあるが、何々からの自由である消極的自由(干渉の不在)はあるとは言えそうにない。そうであることによって見せかけの同一性による求心のまとまりをつくっているのだ。集団の凝集性が高い(高凝集性の集団である)。多様性がなく、閉鎖性が強い。これは個人の勝手な感想にすぎないものではあるが。

 リベラルということで必ずしもまとまらなくてもよいのではないか。その中に矛盾があってもよいだろうし、非協力なのがあってもよい。そのほうが自由があるということになりやすい。矛盾があってもよいというのは、答えは一つではないのがあるからだ。自由主義の文脈においては、他者に危害を加えないかぎりは、愚行権があるのであって、それぞれの人の自己決定に任されている。

 帰属(アイデンティティ)と個性(パーソナリティ)というのがあるのにおいて、リベラルというのがあるとすると、そこに帰属するだけではなくて、そこから離れることによる個性というのがあってよい。帰属することだけが大事だとはかぎらず、個性をもっていて、それをもつことが許されることもまたそれと同じかそれ以上に大事だ。

 みんなでまとまることによって数を増やすのは、悪いこととは言えないけど、正と負の両方の面があるというふうに見られるものだ。それぞれがてんでにばらばらで孤立してしまうのもまたまずいことではある。そうかといって、集団の中がみんな同じであるような一枚岩なあり方は幻想にすぎない。数が多くて力が強いからといって、それが正しいことだとはかぎらないのはたしかだ。might(力)と right(正しさ)は分けて見られる。

 参照文献 『現代倫理学入門』加藤尚武現代思想を読む事典』今村仁司編 『正しさとは何か』高田明典 『半日の客 一夜の友』丸谷才一 山崎正和