病という現象は、さまざまにあるものだし、体と心が密接に結びついてからみ合っているものだから、たんに自己責任とするのは原因(問題の所在)をとらえているとは言えそうにない(生の欲動であるエロスや、死の欲動であるタナトスが関わっている)

 生活習慣病は自己責任だ。うやむやはよくない。省庁の官僚はそう言っているという。官僚のこの発言にたいして、よく言ったという声があり、いやおかしいという声もある。国士だと持ち上げる。いやそうではないとして、ぺてん師だとさげすむ。

 省庁の官僚は、生活習慣病について自己責任だと言うが、自己責任ということを持ち出すことによって、われわれ(国や省庁)には責任はまったくない、ということを言わんとしている。責任ということについては、国や省庁にも少なからずそれがあるはずだ。まったく責任がないというのはおかしい。

 生活習慣病は個人がかかるものであって、それを個人における病理であるとできるとすると、それだけではなくて、個人をとり巻く社会や国の病理がある。社会や国の病理を無視することはできそうにない。

 基本として粗食しか食べることができなくて、車本位社会(モータリゼーション)になっていなくて、体を動かさざるをえないのであれば、あるていどは健やかになりやすい社会や国のあり方だというふうに見なせる。現実はそうではなくて、便利さや豊かさを追求することによって、食べものや飲み物が過剰(豊富)にある。テレビ番組ではグルメの番組が多く放映されている。自動車がたくさんつくられて売られている。

 社会や国のあり方が不健康で、病理を抱えているために、個人が巻きこまれてしまっているというふうに見なせるのではないか。ストレス社会や疲労社会であるということは軽んじることができそうにない。

 単純に、社会や国のあり方がどこからどう見てもまぎれもなく病んでいると言い切ってしまうことはできづらい。物がたくさんあることによる過剰(豊富)さや便利さというのは、絶対的に悪いとは言えないものだ。食べるものや飲むものがなくて困るのに比べれば、とてもありがたいことではある。個人が置かれている状況のいかんによっては、過剰による豊富さや便利さがさいわいすることがあるし、災いしないこともあるが、中には災いする人もなくはない。

 できるだけ健康な自己決定ができるのであればのぞましい。それができる人は、その人の自己功績なのはあるだろうけど、そこはさまざまだろう。〇か一かということではないとすると、何から何まで健康な自己決定をしている人はあまりいるとは言えそうにない。純粋に健康な自己決定だけをしている人はいるとしてもまれであって、たいていは不健康な自己決定が混ざっているもので、不純または雑種ということになる。

 完ぺきに健康な自己決定ができている人は別として、たいていは健康なのと不健康なのが混ざり合っている。ていどの問題だということができるだろう。不健康の度合いが大きくなってしまうとして、それは個人の非として片づけてしまえるかと言えば、そうとは言いがたく、とり巻く社会や国のあり方に病理があるのが関わってくる。

 社会や国が抱える病理に目を向けて、それを改めて行くことができるから、そうするようにするのはどうだろうか。社会や国のあり方で、労働のことをとり上げてみても、まっとう(ディーセント)なものではないのがあるので、そこを改めるようにしたい。

 十ぱ一からげに、生活習慣病は自己責任なのかと言えるかについては、首をかしげざるをえない。たとえば、減量ということについて言うと、それぞれの人がみな標準なあり方をしているのではなく、すごく太りやすい人もいれば、そうではない人もいて、さまざまだ。あまり太りづらい人は、大した努力をしなくても太らない。太らないように努力をするにしても、努力逆転の法則がはたらくことがある。人のあり方というのはみんなが標準というのではなくて、わりと偏差(差異)があるものなのではないだろうか。そこをくみ入れることはあってよいことだ。

 参照文献 『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』青木人志疲労とつきあう』飯島裕一 『事例でみる生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編