自己保存(自国愛)から勇ましさによってつき進んで自他にたいして不正義を引きおこして破滅にいたった過去の歴史は、あるのではないか(自虐史観だと言われるかもしれないが)

 韓国でも日本人は立派だった。私たちは先人の仕事に胸を張ってよい。日本がよかったり立派だったりしたという日本史があるが、これは韓国が消したものなのだ。新しく出版される本では、こうしたことをうたっている。

 日本は朝鮮半島を植民地支配していたが、そのさいに日本は韓国(朝鮮)によいことをしたというのは、まちがいなく確かなことだとは見なしづらい。日本はよいことをしたし、よい国だったとするのは、まちがった一般化であるし、適していない敷えん(誇張)だと見られる。だいたいのことにおいて、よいことを一般化するのはできづらく、限定化されるのが普通だ。悪いことは一般化されやすい。

 よいことではなく、悪いことはしていなかったのかといえば、それをあげるのに枚挙にいとまがない。負(暴力)の痕跡は消しがたくある。悪いことをしていたのがいくつもあるのだから、そこを矮小化しないようにしたいものだ。

 悪いことをいくつもしていたことに目を向けて、矮小化しないようにするのは、よいことをしたり、よい国だったりしたというふうに、純粋なものとしてしたて上げるのを避けるためだ。日本が(他国に)純粋によいことをしたり、よい国だったりしたというのは、およそ考えづらいことだ。どこからどこまで、一人も残らず悪かったとは言えないとしても、不純であって、雑種であるのはほぼまちがいない。清だけだったというのはおかしいのであって、濁を見ないとならない。

 日本が清であって、よいことをしたりよい国だったりしたのなら、そこに問題はないが、濁であったのであれば問題がある。何も問題がないのならそれに越したことはないが、現実に問題がおきしてしまっているのは否定しがたいことだ。

 いまだに問題を抱えつづけているのが日本の国の姿だろう。過去の戦前や戦争から来ている問題が、いまも尾を引きつづけている。戦前や戦争において日本は国としてまちがったことをしたが、これがいまだに問題として尾を引いているのは、戦争(や植民地支配)というものがそれだけ負の持続をもたらす問題だからだ。かんたんに終わるものではないことによる。

 かつての日本はよいことをしたりよい国だったりしたのではなく、どれだけみにくいことをしたのかや、どれだけまちがったことや愚かなことをしたのかを見るようにしたい。そうするとしても、過去の先人を冒とくすることには必ずしもならないのではないか。

 薬が毒になって、毒が薬になる。この逆説(パラドックス)があるから、薬ではなく毒となることを見るようにすることがいる。毒となることには、日本の負の歴史が当てはまる。負がいまもって引きつづいているのを見るようにして、それを少しでも引き受けるようにして、いかに戦争(や植民地支配)というものが不幸をもたらしてかっこうが悪い(まったくかっこうがよくない)ものかというのを、忘れないようにしたいものだ。

 国どうしのにらみ合いやぶつかり合いによって緊張がおきたときに、核兵器が使われない保証はない。いままでに核兵器がぎりぎりの瀬戸ぎわで使われるのが避けられたのは、核兵器に抑止力があったからではなくて、核兵器の使用(や配備)に反対する声が一時的に高まったことによるという。

 かつての日本は大きな軍事力をもつ国だったが、それによって国民の安全や平和が保たれたのではなく、かえって戦争を引きおこしてしまった。いくら軍事力を大きくして強めても、それによって国民の安全や平和は保たれず、逆に危険をもたらしかねないことがかいま見られる。

 核兵器をもつことなどによる軍備の拡張は、経済としてわりに合うものだとは言えそうになく、軍需産業を富ませるだけに終わりかねない。お花畑の平和の見なしかただと言われてしまうかもしれないが、殺害生産力である軍備や兵器をできるだけつくらないようにして、減らして行くようにして、最終的にはゼロにもって行くことが理想だろう。

 参照文献 『歴史という教養』片山杜秀 『新版 一九四五年八月六日 ヒロシマは語りつづける』伊東壮(たけし) 『頭のよくなる新聞の読み方』正慶孝 『現代思想を読む事典』今村仁司編 「近代世界と環境問題」今村仁司(「生活起点」No.五六 二〇〇三年一月) 『信頼学の教室』中谷内一也 『軍拡の不経済学』田中直毅