子どもといっても他人だから、子どもがまずいことを一〇〇パーセントやらないという保証は持てないのが難しいところだ(他人を制御できない)

 自分の子どもが、他人さまの子どもを殺す。それをしでかしかねない。そうなることが危ぶまれるので、そうなるくらいであれば、親である自分が自分の子どもを殺す。それによって、他人さまの子どもが殺されるのを避ける。こうしたツイートが言われていた。

 このツイートで言われていることは、じっさいにそうするというのではなくて、そういう心の動きがあるとしても、それは分からないことではない、といったことだった。

 まずひとつ言えるのは、親が自分の子どもを殺すのは、たとえそれがどんな理由によるのだとしても、人が人を殺すことだから、自由主義における他者危害の原則に反している。他者危害の原則は完全義務であって、この義務は守らないとならないものとなっている。例外をもうけるわけには行きづらい。

 どういう理由によるのであっても、親が自分の子どもを殺すのは、親にとって健康な自己決定であるとは言えそうにない。自分の子どもが、殺人という不健康な自己決定を行ないかねないのだとしても、だからといって、親が不健康な自己決定をしないでもよいことだろう。

 子どもが人を殺しかねないというのを、必然性の次元ではなくて、可能性の次元として見るのはどうだろうか。必然性の次元で見てしまうと、まちがいなく殺すということになるが、可能性の次元で見れば、ゆるく見なすことができる。

 親が自分の子どもを予防的に殺すのは、まちがった父権主義(パターナリズム)だということが言えるのではないだろうか。こうした父権主義ではなくて、ちがった穏やかな父権主義を用いるのはどうだろうか。

 子どもの自由を尊重しつつ、父権主義を用いるようにする。うまくできることかどうかは定かではないが、子どもが健康な自己決定をできるようにするために、親もまた自分で健康な自己決定をおこなって行く。

 子どもが人を殺しかねないということで、親の認知がゆがむのは危ない。親に認知のゆがみがはたらいていると、子どもをまちがって認知しかねない。子どもにたいして、どういうことが言えるのかということで、できるだけ客観的に妥当性のある見かたをすることがいる。

 子どもが人を殺すことを、一〇〇パーセント防ぐことはできないだろうが、親において気をつけないといけないのは、啓蒙が野蛮に転化(退行)することだ。親の父権的な子への干渉や啓蒙が、野蛮にいたるというものだ。

 自分の子どもが人を殺しかねないという問題があるとして、それを何とかする変換操作(手だて)として、親が子どもを殺す、というのは適したものだとは言えそうにない。

 子どもにたいして、有罪推定の前提条件で見るのではなくて、無罪推定で見ることがいる。無罪推定で見るのであれば、子どもがまだ罪を犯していないのにもかかわらず、あたかも罪にたいする罰のようにして、親が子どもを殺してよいということにはならない。えん罪がおきてしまう。

 事前と事後というふうに分けられるとすると、万が一子どもが人を殺してしまったとすれば、事後ということになる。それがおきていないのなら事前だ。事前に打てる手としては、色々なものがあるのではないだろうか。

 危機管理としては、最悪のことがおきかねないというのはあるわけだけど、それを事前に想定できるのだとしても、〇か一かということでは必ずしもなく、そのあいだの中間を見られる。できるだけ最悪のことがおきないようにするために、少しでもそれを防ぐために、確率を少しは引き下げられる穏やかな手を打つのが現実的だろう。

 結果論と帰結論と義務論の三つの視点で見てみたい。まず結果論として見てみると、もし子どもが人を殺したら、それはすでにおきてしまった事後のことで、とり返しがつかない。これはとてもよくない結果だ。

 帰結論で見ると、自分の子どもが人を殺しかねないから、親が子どもを殺すのは、決してよくはない帰結(想定)だ。もっとほかののぞましい帰結がとれるのだから、それをとるようにするのはどうだろうか。子どもと親にとって、互いに効用が高い帰結はほかにあるはずだ。

 義務論として見ると、ある理由があって親が子どもを殺す(かどうか)というさいに、それの過程に目を向けられる。過程に十分に時間や労力をかけることが欠かせない。自分ひとりだけで決めないで、ほかの色々なまわりの人に相談を持ちかけるとか、複数の専門家に相談してみるとかいうことがやりようによってはできる。当人である子どもとも、十分に時間や労力をかけて意思疎通を試みてみることも必要だ。

 そのように過程に十分に時間や労力をかけて、修正や見直しをして行く。人間にまちがいはつきものだ。過程をすっ飛ばしてすぐにあと戻りができない大きな行動をするのなら、まちがう危なさは小さくない。実体の正しさは手つづき(過程)の適切さに相関するから、あいだの過程を性急にすっ飛ばしてしまうと、実体の正しさには疑問符がつく。

 参照文献 『法とは何か』渡辺洋三 『現代倫理学入門』加藤尚武 『論理的に考えること』山下正男 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房