(国家を批判するような)毒としての表現の許容性の度合い―民主主義において悪魔の代理人(devil's advocate)がいることの有用性

 愛知県の県知事をやめさせる。その運動で署名が集められていたが、集まった署名のうちの八割超が不正だったとされている。この署名の不正はあらためてみると民主主義の信頼性を損なわせるのがあるから軽んじてよいことではないところがある。

 八割超の署名の不正があったことがわかったことについてをどのように見なすことができるだろうか。人それぞれによっていろいろな見なし方ができるのにちがいない。その中でかくあるべきの当為(sollen)とかくあるの実在(sein)の点からすると、純粋な当為によってつっ走って行こうとしたために大量の署名の不正がおきることになったのがあるかもしれない。

 当為と実在のどちらの方によって立つのかがある。当為によって立ってしまうと、純粋な正しさによるといったことになる危なさがつきまとう。それでまちがった方向に向かってつっ走っていってしまう。これが現実におきたのが戦前や戦時中の日本の国だ。

 できるだけ効率よくやって行こうとする。それと親和性があるのが当為によって立つあり方だ。そこから危なさがおきるのがあり、純粋な正しさによる教義(dogma、assumption)によってしまうおそれがある。ものごとを見なすさいのゆがみを正す機会をもてず、信念が補強されつづける。

 なにが正しいことなのかといったさいには、かくあるべきの当為による純粋な正しさをすぐに持ち出してしまうとまちがうことがある。それを持ち出すのではなくて、法で決められている決まりを守るようにして、適正さによるようにして行く。そうしたほうがどちらかといえば安全だ。

 法の決まりによる適正さによることがないがしろになると民主主義の信頼性を損ねることがおきかねない。かくあるべきの当為によりすぎるのに待ったをかけるようにして、かくあるの実在においてさまざまな声が世の中にはあることをくみ入れるようにしつつ、ものごとを進めて行く。

 かくあるの実在にはさまざまな声があり、人それぞれによっていろいろな遠近法(perspective)をもつ。人それぞれによってちがいがある(several men,several minds)のがあるから、それをもとにしつつ、その中で共に価値を共有し合える信頼性をつくりあげて行く。それを少しずつやっていったほうが危なさは少ない。

 一般論でいえるとすると、ものごとの実質の正しさは、とちゅうの過程の形式の手つづきと相関するところがある。とちゅうの過程の手つづきにしっかりと力を入れてじっくりとやって行けば適正さによりやすい。そのためにはかくあるの実在にはさまざまな声があることをくみ入れるようにして行く。そこを抜きにして、かくあるべしの当為だけによって効率性を高めるだけだとじかに実質の正しさをとることになるから適正さが欠けることがある。

 集めた署名の中に八割超の不正があったことからうかがえるのは、とちゅうの過程の手つづきがずさんだったおそれが高いことだ。実質の正しさはそれと相関するのがあるから、実質の正しさにもうたがいがおきてくる。少なくともだれがどう見てもまちがいなく正しいといった客観の正しさだとはいえそうにない。かくあるべしの当為による純粋な正しさによっているのだと完全にしたて上げたり基礎づけたりはできづらい。

 目標の数にはとどかずに結果として県知事をやめさせるのに失敗することと、集めた署名の中に大量の不正があることがわかったこととは、同じことだとはいえそうにない。適正さによっていて結果としてざんねんながら目標を達せられないのと、たとえ不適正さによってでも勝とうとするのとでは行動の質がちがう。

 たとえ不適正さによってでも勝とうとするのは、とちゅうの過程の手つづきをないがしろにしているから、その実質の正しさにすくなからぬ疑問符がつく。実質の正しさに疑問符がつくのがあるから、そこから言えることとして、手段にはまちがいがあったが目ざすところはまったくもって非の打ちどころがないほどに正しいのだといった見かたはなりたちづらい。一〇〇パーセントの完全な正しさによっているとは言いがたいだろう。

 手段において不正があったのは、そこに不純さがあったことがありえるから、動機論からしてまったくもって純粋で正しいのだとは言えないのがある。不純な動機や意図がからんでいたことから不正がおきた見こみがある。結果論(帰結主義)からしても民主主義の信頼性を損ねてしまうことになるから社会の中の価値がおとしめられたところがある。すくなくともとちゅうの過程の手つづきの適正さはあったほうがよかったのがあり、それがあったとしたらまだ救いはあっただろう。

 自由主義(liberalism)においては他者に危害を加えないかぎりはそれぞれの人の自己決定の権利にまかされているのがあるから、できるだけそれぞれの人の自己決定の権利にまかされたほうが社会の中の全体の効用(満足)の量は高まる。結果論における帰結主義(功利主義)からするとそう言えるのがあり、それにくわえて法の決まりをできるだけ守るようにして効率性によりすぎずに適正さによるようにして行きたい。

 自由主義では個人にたいして最低限の守るべき決まりを義務づけるものだから、それ以上のことはそれぞれの個人の自由な見なし方にまかされている。個人が守るべき決まりの水準の線を上に上げて行ってしまうと社会の中の全体の効用の量が下がってしまいかねない。国家が個人にたいしてこれをするなあれをするなとかこれをしろあれをしろといったいろいろな要求をつきつけすぎると上から力で強制されることからそれぞれの個人の効用が下がる。

 社会の中の効用の量はなるべく多いほうがよいのが世俗の点からするとあるから、個人が守るべき決まりの水準の線を上げすぎないようにしたい。国家主義(nationalism)によって国家の公が肥大化して行くと個人の私が上から押さえつけられて個人が守るべき決まりの水準の線が上に上がって行く。そうすると社会の中の効用の量が下がることになり、個人が幸福になりづらくなるおそれがある。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『公私 一語の辞典』溝口雄三現代思想を読む事典』今村仁司編 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『社会問題の社会学赤川学 『正義 思考のフロンティア』大川正彦