アメリカの大統領選挙で不正があったのかそれともなかったのかと、ほんとうはどうだったのかつまり真相をとらえるためにはどうするべきなのか―不正と不誠実と(真相をとらえるためにいる)知の誠実さ

 アメリカの大統領選挙で不正があったのかそれともなかったのか。アメリカのドナルド・トランプ大統領は不正があったのだとしている。トランプ大統領が言うようにほんとうに不正はあったのだろうか。

 そのことについてを見るさいに、不正があったのかそれともなかったのかとするのだと一か〇かや白か黒かの二分法におちいりがちだ。二分法にはなるべくおちいらないようにして、その中間を見るようにしてみたい。

 不正があってはならないのはたしかだが、それとともに不誠実もまたないようにしたい。不誠実にはならないようにして、知の誠実さをもつようにしたいものである。

 知の誠実さが欠けてしまっていると、決めつけた見かたになる。不正があったかなかったかの一か〇かや白か黒かの二分法におちいる。そのあいだの中間を見ることがなくなってしまう。

 政治の時の権力者であるトランプ大統領が、大統領選挙で不正があったのだと言うことは、上からの演繹(えんえき)によるものだ。上からの演繹で不正があったのだと言うのは、それが一〇〇パーセントそうなのだとするのだとしたて上げたり基礎づけたりすることになる。

 だれもがうなずけるほどの客観の証拠(evidence)があるのならともかくとして、そうではないのであれば一〇〇パーセントそうであると言い切ることはできづらい。完全にしたて上げたり基礎づけたりすることはできづらい。

 一〇〇パーセントそうだと言い切ることができないのであれば、その割り合いは引き下がって行く。九〇パーセントや八〇パーセントや七〇パーセントとなって行く。そうであるかもしれないしそうではないかもしれないとなる。そのさいにそうであることは目だちやすいが、そうではない(かもしれない)ことは目だちづらいためにとり落とされやすい。

 人間は合理性に限界をもっているので、完全な合理性をもつことはできづらい。一〇〇パーセント完全に正しい見なし方をすることはできづらいから、誤っている見こみがある。その見こみをくみ入れるようにして、閉じるのではなくて他に開かれるようにしたい。

 ほんとうにアメリカの大統領選挙で不正があったのかどうかをたしかめて行くさいには、閉じているのではなくて他に開かれた中でやって行くことがいる。ほんとうはどうだったのかを確かめて行くには閉じているのではなくて他に開かれている中でおたいがにやり取りをして行くようにする。

 一か〇かや白か黒かの二分法になってしまっていると、中間が失われて、知の不誠実になることがある。とちゅうの手つづきがおろそかになる。とちゅうの手つづきをおろそかにせずに充実させるようにして、知の誠実さをもつようにして行きたい。

 交通論で見てみられるとすると、二分法によって中間が失われていると一方的な単交通や、お互いにやり取りが行なわれない反交通となる。双方向性のやり取りによる説明責任(accountability)が果たされない。それだとほんとうはどうだったのかを確かめることがなりたたない。

 お互いにやり取りをし合う双交通になるようにして、かんたんに二分法で決めつけないようにする。中間のところをとり落とさないようにして行く。おたがいにやり取りをして行く中で異交通となるような見かたを導いて行く。双方向性による説明責任を果たす。そういった知の誠実さがある中でほんとうのことがどうかが見えてくる。

 お互いがそれぞれにもっている枠組み(framework)のずれがあると、話が折り合わない。お互いどうしがそれぞれにぶつかり合う。そのぶつかり合いを和らげて行く。枠組みどうしをうまく橋わたしして行くために橋をかけることを試みる。橋をぶち壊してしまったら生産的で建設的な話し合いはなりたたない。

 形式論と実質論で見てみられるとすると、形式と実質とはたがいに相関するところがあり、形式つまりとちゅうの過程(process)がどうかが実質つまり結果に影響を与えるところがある。結果よりもむしろとちゅうの過程のほうに意味がある。そう言えるのがあるとすると、力を入れるべきなのは結果そのものであるよりもむしろとちゅうの過程の手つづきのほうにあり、形式として互いにやり取りをしっかりとやって行くようにする。結果がどうかはその産物としてあるものだから、実質の結果ではなくてとちゅうの過程の形式に力点を置くことができる。

 アメリカの大統領選挙で不正があったのかどうかは、実質の結果としてだけではなくて、形式のとちゅうの過程の手つづきのほうに力を入れることがあったら知の誠実さを持ちやすい。実質の結果だけをとり上げてしまうと、二分法におちいってしまうことがあり、知の誠実さが損なわれて不誠実になることがある。不正とは別に知において不誠実になってしまうと見かたがいちじるしくゆがむ。

 見かたがいちじるしくゆがむのを少しでも防ぐためには知の誠実さをもつようにして、形式のとちゅうの過程の手つづきを充実させて、お互いにやり取りをしっかりとして行く。もしも意味があるのだとすれば、それは実質の結果であるよりも(それも大事ではあるが)、形式のとちゅうの過程の中にそれがある(そこにしか意味はない)のだと言えないではない。完全にほんとうのことが明らかになり、既知だけになって未知がまったくなくなったら、そこで終わりになり、運動の停止になり、死になる。

 参照文献 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 「求道(フィロ=ソフィア)と智慧(仏智)の関係 驚くことの意味について」(講演) 今村仁司 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)