Go to キャンペーンの政策をあくまでもやりつづけようとする政権のかたくなな姿勢

 政権がすすめている Go to キャンペーンの政策をいったん一時的に中止する。それが探られていると報じられていた。じっさいには Go to キャンペーンの政策を一時的に中止するつもりはないのだとして、政権は報道で言われていることを否定していた。

 ガースーですとテレビ番組の中で自己紹介していたのが与党である自由民主党菅義偉首相だ。一部の人たちからガースーと言われていることから、それを逆に利用するかたちで自己紹介に使ったのだろう。軽い気持ちでガースーと自分のことを言ったのだろうけど、いまは新型コロナウイルス(COVID-19)でたいへんな状況なのだからそのことをくみ入れられるとすると菅首相はきちんと社会の中の空気を読めているのかがいぶかしい。

 いつのまにか Go to キャンペーンの政策が悪いことにされてしまっている。悪いものだと見なされてしまっている。菅首相はテレビ番組でそう言っていた。これはむしろ逆で、よいものにされてしまっているのがあるのだとも言える。そこでいることがあるのだとすれば、よいか悪いかとは別になるべく中立化して見てみることだろう。中立化して政策を見て行くためには、政策がもつ利点と欠点をあらい出すようにすることがいる。利だけではなくて害となる穴が空いていないのかをきびしく見て行く。それができていないのはいなめない。説明責任(accountability)が欠けている。

 Go to キャンペーンの政策をやめないことについて菅首相は、移動ではウイルスの感染はおこらないとする専門家の意見を持ち出していた。たしかに移動することや旅そのものではウイルスの感染はおきないのだと専門家は言っていたが、これははたしてふさわしいことなのだろうか。

 純粋に移動だけするのや、純粋に旅だけするのであれば、それだけではウイルスの感染はおきないのかもしれない。それは机上においてはそう言えるかもしれないが、じっさいの行動は机上どおりには行きづらい。現実は机上による純粋なものではなくて不純さがある。

 移動や旅についてをどのように定義づけをするのか。そのことを修辞学の議論の型(topica、topos)でいわれる類または定義からの議論によって見てみられるとすると、機能と構造によってとらえられる。移動や旅がどういった機能と構造をもっているのかだ。それらを見てみられるとすると、ただ純粋に移動や旅をするのではなくて、そこにはそれらを行なうさいに付随するさまざまな派生のことをふくむ。その派生のところからウイルスの感染がおきることがあるとするとそこを無視することはできづらい。

 純粋に移動だけまたや旅だけをするのならばウイルスの感染はおきない。そういえるのがあるとすると、その反対(対偶)となるのは、ウイルスの感染がおきるのであれば純粋に移動だけまたは旅だけをしているのではないことになる。じっさいの現実はこの反対のように、ウイルスの感染がおきてしまっていて、それはただ純粋に人々が移動だけをしたり旅だけ(旅そのもの)をしたりしているのではないからなのではないだろうか。それらに付随する派生のことをすることがある。

 かりに専門家が言っているように移動だけや旅だけをしてもウイルスの感染はおきないのだとしても、そこから Go to キャンペーンの政策が正当化されるとは言い切れそうにない。あたかもきびしい修行を積んでいる修行僧のように移動だけや旅だけをするのではないだろうから、気がゆるむことがある。つねに気を引きしめつづけていることはできづらい。人間は過剰な余剰(excess)の活力をもっていて、それを発散させるために移動や旅をすることがあるから、そこで気がゆるむ。人間の文化は余剰による。

 ウイルスの感染をおこさない、またはウイルスの感染を減らすことをうながすのが Go to キャンペーンの政策なのだとは言えそうにない。せいぜいかなり甘めに見なすのだとしても Go to キャンペーンの政策でウイルスの感染は(それによっては)おきないとは言えるかもしれないが、ウイルスの感染を減らすことをうながすものではないだろう。

 社会の中の現象としてウイルスに感染する人が増えているのがあるのだとすれば、その現象がおきていることをくみ入れるようにして行く。それをくみ入れるようにするのだとすれば、どういう状況なのかによって政治でどのような政策をなすのかまたはなさないのかを変えて行く。そのときどきによって適した政治の意思決定や行動は変わって行く。ものによってはそうしたところがある。

 たとえ社会の中でウイルスに感染する人が増えている現象がおきているからといって、そうした状況のいかんに関わらずあくまでも Go to キャンペーンの政策をやりつづけて行く。政権はそうしたかまえをとっているが、それだと状況をないがしろにしてしまう。状況のちがいによって政治がなすべき政策は変わり、政策のもつ意味あいが変わるのがあるとすると、いついかなるさいにも Go to キャンペーンの政策がそれそのものとしてよい意味あいもっているとは言い切れないものだろう。

 変えてはならないものと変えてもよいものの二つに分けられるとすると、Go to キャンペーンの政策はどうしても変えてはならない(どうしてもゆずることができない)といったほどに政治においてその中心をなすくらいに重要なことなのだろうか。政策への価値の置き方として、どうしても変えてはならないとするものなのであれば、それはかなり客観に高い価値があることがいるから、それを多くの人がうなずける形で示すことがいるだろう。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『最後に思わず YES と言わせる最強の交渉術 かけひきで絶対負けない実戦テクニック七二』橋下徹現代思想を読む事典』今村仁司