ウイルスの感染への対策と経済との二つの両立のさせづらさ―もともと経済はごまかしやいんちきによっていて神話によるものではあるだろう

 ウイルスの感染への対策か経済か。そのどちらをより重んじるべきなのだろうか。新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が広がっている中ではそれが政治につきつけられている。

 日本の社会の中でなぜウイルスの感染がまた増えてきているのだろうか。それにはいろいろな要因があるのにちがいない。その中の一つとして、ことわざで言われる虻蜂取(あぶはちと)らずになっている。二兎を追う者は一兎をも得ずになっている。そう見られるのがあるかもしれない。

 日本の国の政権はどちらかといえばウイルスの感染への対策よりも経済のほうにより軸足を置いている。ウイルスの感染への対策はどちらかといえばおざなりなところがあり、それよりも経済のほうに前のめりだ。

 経済に前のめりなのはまったく理がないことだとは言えそうにない。それはあるものの、経済に前のめりになることによってウイルスの感染への対策がないがしろになる。

 どちらかにはっきりと割り切れればわかりやすい。どちらかに割り切れないものはとらえ方がむずかしい。やり方にむずかしさがある。与党である自由民主党は政治においてたとえ割り切れないものであったとしてもそれをあたかも割り切れるものであるかのようにやってきた。それが見られるものとして憲法の改正のことがある。憲法の改正をどうするのかは割り切れるものではなくて割り切れないものだが、それをあたかも割り切れるものであるかのようにあつかっているのが自民党だ。

 自民党は割り切れないものについてをあつかうのをもともと苦手としているが、それによってウイルスの感染への対策がうまくできていない。もともとうまくできづらいのがウイルスの感染への対策だが、自民党はそれについて(もともとそうであるより以上に)なおさらてこずっているように見える。

 親が子どもに向かって、わたしはぜんぜん怒ってはいないのだと、ものすごく怒った口調や顔をして言う。その状況の中で子どもははたして親は怒っていないのかそれとも怒っているのかをとらえあぐねる。これが学者のグレゴリー・ベイトソン氏のいう二重拘束(double bind)の状況だ。

 二重拘束の状況に置かれるとどのようにとらえてよいのかがわからなくなって傷つく。そこからうまく脱することができないと相反するものごとのあいだで引きさかれる。ウイルスの感染への対策かそれとも経済かでは、日本の政権は二重拘束の状況をつくり出してしまっている。それがあるとすると、国民は二重拘束の状況に置かれることになる。

 ゲシュタルト心理学では図がら(figure)と地づら(ground)は反転させられるとされる。ウイルスの感染への対策を図がらとすれば、経済が地づらになる。地づらにされた経済はおろそかにすることができないものなので、経済を地づらにしつづけておくわけには行かず、それを図がらにしないとならない。経済を図がらにするとウイルスの感染への対策が地づらになり、ウイルスの感染への対策が手うすになることで感染が増えてくるとまずいことになる。

 日本の戦前や戦時中では日本は戦争にまちがいなく勝つとする神風の神話(mythos)が言われた。神風はまちがいなく吹くのだとされた。神風が吹かないことはない。ウイルスの感染への対策でも、自民党の政権は神風が吹くのを待っている。ウイルスを抑えこむことができるワクチンが十分に供給されて、それまでにできていた社会の活動がまた行なえるようになるのを待ちのぞむ。うまくすればそれが見こめる。

 自分たちで能動性をもって何とかやっかいなことがらにとり組んで行こうといったことよりは、神風がうまく吹いてくれるまでのあいだは何とかとりつくろいやごまかしでも何でもしてとにかくしのごうとしている。神風さえ吹いてくれればあとは何とかなる。われわれはうまくやったのだと言うことができる。自民党の政権がいだいているであろう願望のとおりに現実が進んで行くかどうかは定かとは言えそうにない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『岩波小辞典 心理学 第三版』宮城音弥(みやぎおとや)編