五輪と山登り―ウイルスの感染の広がりと無酸素化

 五輪の関係者を泡でつつみこむ。バブル方式とされるものがとられている。ウイルスの感染にたいして安全や安心をもたらすためだ。

 バブル方式がとられているから、五輪は安全で安心なものだと言えるのだろうか。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっている中で東京都で夏に五輪をひらいても大丈夫なのだろうか。

 バブル方式によるあぶくがたやすくはじけるのではないかと言われている。ウイルスの感染を防ぎ切れるのではなくて漏れがおきてしまう。

 山に登ることに五輪をひらくことをなぞらえられるとするとこういったことが言えそうだ。山でいえば初心者級のものなのであれば、五輪をひらいたとしてもそれほど危なくはない。初心者級の山であれば、それほど危ないことはおきづらいから、五輪をひらいたとしてもやっかいなことがおきることは少ない。

 いまはウイルスの感染が広がっているから、山でいうと初心者級のようなものではなくなっている。甘く見ても中級者級より以上であり、きびしく見ればそうとうに上級者の人しか登ることができない山となっている。

 五輪をひらくことが無酸素化している。日本の社会をふくめて世界のさまざまな国が無酸素化している。山でいうとそうとうに高い実力がいるような高い山となっているのがあるので、五輪をひらくさいに危なさが高まっている。

 ウイルスの感染がおきていなければ、平地においてらくに酸素を吸えるようなものだ。その中で五輪をひらくことはとんでもなく難しいことだとまでは言えないものだろう。

 平地においてらくに酸素を吸えるのではなくなっていて、無酸素化しているのがいまのありようだとすると、その中で五輪をひらくのは難しさがともなう。安全や安心が確かなものではなくなっている。

 安全や安心が確かなものだとするのは、平地においてらくに酸素を吸えるようなところではなりたつが、高地ではそれがなりたちづらい。ウイルスの感染が広がっている中で、五輪をひらくことが平地ではなくて高地のようになっているのだとすれば、平地で通じることが高地では通じなくなる。

 日本の政治は、何かをなすさいに見通しが甘くなりやすい。五輪にもそれがあったのはいなめない。はじめの見通しが甘かったのである。原子力発電所でいうと、安全神話をとっていたために、はじめの見通しが甘くなった。原発の事故がおきるまでその見通しの甘さが通じてしまった。原発の事故がおきたあとでも完全に目がさめているとは言いがたい。

 日本の国の財政でいうと、経済が何とか上向きになるだろうといった甘い見通しがとられてしまった。きびしく引きしめなかったために、どんどん国の借金が増えつづけていってしまった。国の人口を何とかこれから先も保ちつづけられるだろうとしていたのが、高齢化と少子化がうんと進むことになってしまった。経済や人口についてもっときびしい見通しを持っていれば、いまほどにはぼう大に国の借金は増えなかっただろう。

 日本の国がアメリカと戦争をするさいに、短期で決着がつけば日本は何とか勝てるだろうとしていた。中期や長期においてはどうなのかは深くまでは探られなかった。戦争が長引いたらどうなるのかは深くまでは見られなかった。短期だったら日本にもそれなりの勝機があるといったことで戦争をはじめることになった。神風の神話による甘い見かたが日本の国においてとられていたのである。

 車の運転でいうと、かもしれない運転ではなくてだろう運転をとりやすいのが日本の政治にはある。そこが心配な点である。五輪をひらくさいに、かもしれない運転をせずにだろう運転をすることによって、まずいことがおきるおそれがある。できるだけかもしれない運転をするようにして、見かたをきびしくするようにしたい。いまからでも五輪をひらくことを中止にすることを決めたらどうだろうか。

 参照文献 『「無酸素」社会を生き抜く』小西浩文 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし)