不安をあおることは、報じるべきではないのか―不安をあおることは報じないでふせるべきなのか

 ウイルスへの感染が、増えて行く。新しい感染の波がおきる。感染がひろがることを報じると、不安をあおってしまう。不安をあおることになるので、報じないほうがよいのだとされるのがあるけど、それはふさわしいことなのだろうか。

 構築主義(constructionism)の点からすると、ウイルスへの感染がひろがるのは、社会の問題(societal issue)だ。

 社会の問題は、客観かつ本質にとり上げるべきことだとは言えないものだ。ある人にとっては、ウイルスの感染の広がりがすごく問題になることがあるし、ちがう人にとってはそれよりもほかのことのほうがより問題だ。

 認識をみちびく利害の関心がある。それぞれの人がもつ利害がちがうから、関心の持ち方がちがう。認識のしかたがちがってくるのがあって、あることを重んじるべきか軽んじるべきかに、ちがいがおきてくる。

 不安をあおるのがよくないのかどうかでは、北朝鮮がうっているミサイルがある。北朝鮮がうつミサイルは、日本をねらっていない。日本をねらっているのではないから、日本に被害がおきるところにおちたら失敗だ。日本に被害がおきないところにおちれば成功だろう。

 たんに不安をあおるだけのために報じられているのが、北朝鮮がうつミサイルだろう。たとえられるとすれば、落石に注意、の看板のようなものであり、北朝鮮がミサイルをうったことを知ったからといって、それが何なのか(so what?)といったところがある。

 北朝鮮のミサイルよりも、自分がつぎに食べる食べものを得るのにすごい苦労している人もいるだろうし、お金がなくて苦しんでいる人もいるだろう。車にひかれることなんかの、交通の事故にあってしまうおそれもある。自分の人生にふかくぜつぼうしていて、まったく少しの希望や光明ももてない人にとっては、外の世界にたいする生産性や建設性がある関心をもちづらい。

 不安をあおってしまうから、それについてを報じるべきではないのだとして、それを報じない。そうしたありかたをやるのだとしても、そのやり方に、まずさがある。そのやり方を問題化することがなりたつ。

 不安をあおることをねらって、あることを報じるのがあり、そうした報じ方を問題化することもなりたつ。

 不安については、それをあおらないほうがよいとすることもあれば、あおったほうがよいとすること(不安をあおることがねらわれること)もある。それらがよくないことがあるから、それらを問題化することができることがある。

 不安をあおることでは、それをちがうふうにとらえれば、きちんと情報が民主化されていて、事実が報じられているのだとすることもなりたつ。まったくうそのことが報じられているのでないのであれば、たとえ不安をあおることになっているのだとしても、事実が報じられているのだから、そのことが、客観や本質として良くないことだとは言い切れそうにない。

 ウイルスへの感染では、ウイルスへの感染が広がっているのが良くないのか、それともウイルスへの感染が広がっているのを報じることで不安をあおることになっているのが良くないのかがある。その二つがあって、人によっては、ウイルスへの感染が広がっているのが良くないとするのがあるし、別な人にとってはそれを報じることで不安をあおるのが良くないとするのもある。

 重いものでありしんこくなものなのがウイルスへの感染だとするのもあれば、軽いものでありしんこくではないものなのがウイルスへの感染だとするのもある。ウイルスへの感染を、重く見なすべきか軽く見なすべきかは、いちがいには言い切れないところがあり、客観や本質のものとはしづらい。何を、とり上げるべき社会の問題だとするのかが、人それぞれでちがっている。

 参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『情報政治学講義』高瀬淳一 『政治って何だ!? いまこそ、マックス・ウェーバー『職業としての政治』に学ぶ』佐藤優 石川知裕 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや)