カルトの宗教の聖地が、日本にはいくつもあるのだという―そこをかってに(一方的に)きょかもなく聖地としてもよいのか

 カルト(cult)の宗教が、そこを聖地だと見なす。日本には、聖地だとされているところがいくつもあって、その一つなのが、山口県下関市だという。

 韓国のカルトの宗教が、下関市を聖地(の一つ)だと見なしていることについてを、どのようにとらえられるだろうか。

 いっぽうにはカルトの宗教があり、たほうには(聖地だとされている)下関市がある。

 主体に当たるのがカルトの宗教だ。行動者なのが主体だ。その相手なのが客体だ。下関市は客体に当たる。

 下関市が聖地だとされているのは、主体のもっている認識だ。主体の認識は主観である。主観において、下関市は聖地だとされているのである。

 客体に当たるのが下関市であり、それそのものは聖地だとはいえそうにない。それが聖地だとされるのは、客体としての下関市ではなくて、客観としての下関市だ。カルトの宗教が見なすところの下関市が、客観としての下関市だ。

 たんなる下関市が客体で、それとはべつに、だれだれが何々するところの何々(このばあいは下関市)が客観だ。

 たとえば、たんに、その男であれば客体だ。それとはべつに、わたしが愛するその男であれば、客観だ。

 主体が上に立って、客体が下に置かれる。そうしたところがあるから、カルトの宗教が主体であれば、客体を下において、それを色々に決めつけることがなりたつ。

 下関市は人ではないから、行動者である主体にはなりづらい。カルトの宗教は主体になれるから、一方的に客体にあたる下関市を聖地だと決めつけることがなりたつ。

 下関市は人ではないから、客体にあたることになり、主体にかってに一方的に決めつけられてしまうことがおきる。それにあらがいづらい。客体にあたる下関市が、自分から、ここはカルトの宗教の聖地なのだとしているわけではない。

 当事者である下関市が、自分から言っているのではなくて、当事者をぬきにして、第三者や局外者にあたるカルトの宗教が、そこを聖地だとしている。第三者や局外者がかってにそう言っているのにすぎないけど、カルトの宗教は主体に当たるものだから、主体がもっている主観のなかでは、客観として、カルトの宗教が見なすところの下関市は聖地であることになっている。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『当事者主権』中西正司(しょうじ) 上野千鶴子