統一教会と、信じる自由(信教の自由)―科学の思考の欠如と、非科学性

 信じる自由があるのだから、韓国の新宗教(旧統一教会)はあったほうがよいのだろうか。

 信者の中に、被害者がいく人も出ているカルト(cult)の新宗教であっても、解散させないほうがよいのだろうか。

 どのようなまずさを韓国の新宗教はかかえているのかといえば、いろいろにある中で、擬人化の思考をあげられる。

 擬人化の思考は、非科学のものだ。宗教では神さまを信じることがなされるけど、神さまは幻想によるものであり、それは世界の秩序を擬人化したものだ。

 まだ科学がすすんでいない古い未開のあり方なのが擬人化の思考である。学者のハンス・ケルゼン氏による。

 神さまと同じように、国もまた擬人化の思考による幻想だ。国は部分の秩序の擬人化による。その国の法の決まり(憲法)はあるとは言えるけど、国はあるとはいえない。法はあるけど国はないのである。

 どのような宗教であったとしても、それぞれの人がそれを自由に信じるのがあってよい。信教の自由があったほうがよいのはあるけど、そこで気をつけることがいるのは、非科学の擬人化の思考におちいらないようにする点だ。

 非科学の擬人化の思考におちいってしまうと、科学による思考ができなくなる。それで新宗教にだまされて、高額なツボを売りつけられて、買わされる信者などがおきてしまう。

 科学によるようにすれば普遍によることができるけど、非科学の擬人化の思考だと特殊なあり方になってしまう。

 戦前の日本は、特殊なあり方になっていて、それで国がまちがった方向に向かってつっ走っていった。戦争で敗戦した。そのごに、特殊なあり方のまちがいが反省されて、戦後の憲法がつくられた。戦後の憲法は普遍をよしとしている。

 憲法の改正をよしとしてそれを目ざしているのが韓国の新宗教や与党の自由民主党だ。それの意味するところは、それらの集団が擬人化の思考におちいっていることだ。非科学のあり方になっていて、特殊なあり方になっているのである。

 国があるとはいえないのと同じように、韓国の新宗教もまた、よくよく見てみればあるとはいえそうにない。あるとはいえないのが韓国の新宗教なのだから、それを解散させるのは、そもそも成り立たないと言えるところがないではない。

 じっさいにはあるとされている集団を、無いと言ってしまうと、語弊(ごへい)があるのはたしかだけど、その集団(または個人)を体系(system)としてとらえてみると、その体系があるといえるのは、擬人化の思考によっているためなのがある。

 かっことしてその体系があると言い切れるほどには、確かなものだとはいえそうにない。その集団があると見なすのは、擬人化の思考によっているのがあるから、そういう点ではあるのだとすることがなりたつ。

 たとえば、ある民族がいるとして、その民族があるのだとするのは擬人化の思考であり、じっさいには無いものだ。日本の民族でいえば、それがあるのだとするのは、科学によった見かただとはいえそうにない。かっことしたものとしては、体系としての日本の民族があるとは見なせない。

 それが悪質なカルトの宗教であるのなら、その新宗教を解散させることは必要なことだろう。解散をなして行く動きはよいことだから、それが進められたほうが良いのがあるけど、そのいっぽうで、その集団(または個人)があるといえるのは、擬人化の思考によっているのがあるから、そこがきょうみ深いところだ。

 科学によるようにしてみれば、国はあるとはいえず、無いものだ。それを有るのだとするのは、非科学の擬人化の思考だ。かっことしたものとしての日本の国はあるとはいえないのが現実である。

 それぞれの人がいろいろな宗教を自由に信じるのはあって良いことであり、信教の自由はあったほうがよいけど、それとともに、科学の思考をしっかりと身につけたい。科学の思考をしっかりと身につけていれば、信教の自由がある中で、カルトの新宗教にだまされるのを防ぎやすい。

 科学の思考を身につけていないと、カルトの新宗教にだまされたり、日本の国が言っていることにかんたんにだまされたりしてしまう。信教の自由がいるのとともに、それと同じかそれより以上に、科学の思考を身につけることが重要だ。それを身につけていれば、擬人化の思考を見やぶることができるから、神さまはいないし(神の死、最高の価値の没落)、国も無いことがわかってくる。

 神さまはいないのだとはいっても、それを完全に客観に証明することはできないから、それを信じることは、それぞれの人の自由ではある。非科学の擬人化の思考におちいってしまうのはあるけど、それをわかったうえで、科学の思考によるようにしつつであれば少しは安全かもしれない。

 合理性の限界や、限定された合理性しか持っていないのが人間だ。ぜったいの正しさとかぜったいの真実まではわからないのがあり、それらを持ち出すと宗教になる。制約があるのが人だけど、その制約の条件をとっ払ったものなのが宗教だ。

 一〇割の正しさとか一〇割の真実と言ってしまうと、科学ではなくなることになり、宗教になる。あくまでもすべては仮説であるのにすぎず、あらゆることには反証の可能性があるのだとするのが科学だ。

 まださいしゅうの答えがわかっていないから、学問がなりたつ。さいしゅうのぜったいの答えがわかってしまったら、そこで学問の営みは終わる。本当に正しいと言えるものがまだわかっていない、とちゅうの過程(process)にこそ意味があるのだ。よりつっこんでいえば、とちゅうの過程にしか意味はない。

 うら返して見てみれば、一〇割の正しさとか一〇割の真実と言えてしまうところに宗教の強みがあるかもしれない。語られざることについてだまるのではなくて、それを語るところに強みをもつ。一〇割においてのぜったいの領域になってしまうと、宗教の世界に入ることになる。完ぺきな合理性によることになり、人を超えた神さまの合理性によるものだ。

 理想論でいえば、非科学の擬人化の思考から脱して、科学によるようにできたほうが良いのはあるだろう。信教の自由は、そこまで理想と言えるほどのものではなくて、どちらかといえば現実論だ。

 すごい高い理想をいえば、宗教を信じることはできれば無いほうが良い。西洋では、古くから、宗教などを信じることはない方が良いと言われている。王もなく、法律もなく、信仰もなく(ni Roi,ni Loi,ni Foi)である。これはそうとうに高い理想だから、現実論としては、法の決まりなんかは(いますぐに)なくすのはできづらく、必要なものではある。王さまをなくすのは、政治の制度でいえば共和制がそれに当たる。

 参照文献 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『社会学になにができるか』奥村隆編 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫反証主義』小河原(こがわら)誠 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)