日本の政治と、カルトの宗教―カルトの宗教の国としての日本

 韓国のカルト(cult)の宗教は、反日だ。それと結びついているのが、与党である自由民主党だ。

 なぜ反日のカルトの宗教と自民党は結びついているのだろうか。保守や右派なのが自民党であるのにもかかわらず、(愛国であるよりも)反日をよしとしているのだろうか。

 カルトの宗教と、政治との結びつきがある。その結びつきをやめさせたい。カルトの宗教と政治が結びつかないようにしたい。

 あらためて、カルトの宗教だけをとり上げて見てみたい。とりあえず政治は置いておいて、カルトの宗教だけをとり上げてみると、それと政治との結びつきといったことであるよりも、国との結びつきがある。

 どういったものと結びついているのかといえば、政治とであるよりも、国と結びついているのがカルトの宗教だ。

 宗教の性格をもつのが国だ。カルトの宗教とそう遠くはない。近いところをもつ。

 カルトの宗教を見てみると、日本の国が見えてくる。まったく別々のものどうしなのではなくて、似たものどうしなのがその二つだ。

 たがいに似た性格をもっているのが、韓国のカルトの宗教と、日本の国だ。韓国のカルトの宗教は、戦前の大日本帝国に似ている。思想の傾向(ideology)が似ているのである。

 戦前の日本の国はいったいどういうものだったのかといえば、国がカルトの宗教だった。神の国だったのが戦前の日本だ。天皇は生きている神さまだとされていた。戦争に負けて、戦後に天皇は神さまではなくて(ただのふつうのどこにでもいるような)人間だったとなったのである。

 お互いに重なり合ってしまうのがカルトの宗教と日本の国だから、それらを分けづらい。水と油のようなものだったらお互いに混ざり合わないけど、水と水とか、油と油といったものなのがカルトの宗教と日本の国だから、混ざり合う。近しいものどうしだ。

 水と油だったら、水や油を対象化しやすい。水と水や油と油だと、対象化しづらくなる。日本にとって韓国のカルトの宗教は、対象化しづらい。一体化しているところがある。くっつき合っているから、距離をとって分析することがなりたちづらく、カルトの宗教の悪い行ないをへんに許してしまっている。見て見ぬふりみたいになっている。

 反(脱)カルトの宗教がなかなかできづらく、それが成り立ちづらいのが日本だ。なぜそれができづらいのかといえば、日本の国がカルトの宗教のところをもつから、カルトの宗教を呼びよせてしまう。たがいに呼応し合ってしまう。息が合う。

 愛国だと、カルトの宗教をよしとすることになってしまう。愛国でありながら、反カルトの宗教にはできづらいのが日本だ。反カルトの宗教だと、反日といったことにされてしまいやすい。

 愛国で、カルトの宗教をよしとして、反日でもある。そういったわけがわからないことになっているのがいまの日本だろう。韓国のカルトの宗教に、日本の政治が乗っとられているせいだ。

 一つひとつがきちんと分けられていない。愛国、カルトの宗教、反日といった色々なものがごっちゃになって混ざり合う。あれもこれもみたいになっているのが日本だ。

 現象を見てみると、表面としては、韓国のカルトの宗教と、日本の国の政治がゆ着し合う。宗と政の複合体になっている。表面の現象としてはそうだけど、そこを少し掘り下げてみて少し深くまで見てみると、日本の国がカルトの宗教の性格をもつ。そこを見落とすことはできづらい。

 あさいものではなくて、もうちょっと根が深いところがあるのが、カルトの宗教と日本の国の政治との関わりだろう。かつての日本の国の歴史に根ざしているのがあるから、根が浅くない。浅いところですませるのではなくて、深くにある根のところ(問題の所在)までを見て行きたい。カルトの宗教は、日本の国をうつし出す鏡だとすることができそうだ(その逆もなりたつ)。

 参照文献 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『日本が「神の国」だった時代 国民学校の教科書をよむ』入江曜子 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『山本七平(しちへい)の思想 日本教天皇制の七〇年』東谷暁(ひがしたにさとし) 『天皇論』鷲田小彌太(わしだこやた) 『日本人論 明治から今日まで』南博