海外の国に、日本の政治家が視察に行った。そこでとった写真が、批判を受けている。
フランスのパリのエッフェル塔のまえで、塔のかたちをまねたかっこうで、日本の政治家が写真をとった。それをウェブの SNS(social networking service)にのせたのである。
まるで観光に行ったかのように楽しそうな写真をとったのが、海外へ行った与党である自由民主党の政治家たちだ。すごい楽しそうな写真をとり、それを SNS にのせたのは、適したことだったのだろうか。
行動そのものがどうかよりも、行動とそれへの反応の組みで見てみられる。行動にたいして反応がおきるのがあり、そのときどきで色々な反応がおきることになる。人それぞれで色々な反応をおこす。
自民党の政治家が、フランスに行って、楽しそうな写真をとった。それそのものは、客観や本質として悪いことだとは言えないのはある。構築主義(constructionism)からすればそう見なすことがなりたつ。
客観や本質として悪いことだとまでは言えないのはあるけど、だれがどう見てもよいことなのだとはいえないのが、自民党の政治家がやった行動だろう。
記号表現に当たるのが、自民党の政治家がとった写真だ。その写真は SNS にのせられたから、多くの人の目にふれることになった。
写真がどういうものなのかは記号内容だ。色々なことをもの語るものなのが、一枚の写真だろう。たとえ一枚の写真なのだとしても、それがすごくゆうべんにものごとをものがたる。色々なことを受け手が読み取れる。そういったことがないではない。
そこから色々なことを引き出せることがあるから、たとえ一枚だけの写真なのだとしても、それをあなどることは必ずしもできそうにない。
森と木では、一枚の写真は木であり、木から森をおしはかることができなくはない。森の全体は大きすぎてとらえづらいから、何かの木に着目する。部分である木に焦点を当ててみて、それで森をうかがう。
光で描かれたものなのが写真(photography)だ。光が photo で、書くが graph だ。光で描かれたもののこん跡を読みとって行く。写真はうそをつけない(真を写すで写真)。人が言葉でうそをつくようにはうそをつけないところがあるから、本当やまことのありさまがあらわれ出てしまう。ごまかせないところがある。
たとえ海外の視察だとはいっても、せっかくフランスまで行ったのだから、観光地で楽しく写真をとることがあってよい。それくらいはあってもよいといったことも言えなくはないのがあり、ほんの一瞬でも気をゆるめてはならないとまでするのは、厳格主義(rigorism)によりすぎるのはあるかもしれない。
写真をとって、ものを写したのだといったことであるよりは、むしろものが写し出されてしまった。ばきゃくが出てしまったのがあり、自民党の政治家の政治のやる気のなさや、まじめさがないことや、表面の見せかけだけなのが、おもてに示された。
政治をまじめにやることの動機づけ(motivation)がない。表面の見せかけでごまかしていることが多いのが自民党の政治家だ。そこを批判することがいる。頭かくして尻かくさずと言われるのがあり、その隠せていないところの尻のところへ、批判の声がおきている。うっかりと尻が出ているのだから、それを甘く見のがすことはできづらい。
国民のことをいちばんに思うのではなくて、お金や票がいちばん大事なのが政治家だ。お金や票さえ得られればよい。国民は二の次だ。だいたい、国民は顔が見えないから、その実態(実体)が正確にはよくわからない。国民はなおざりにされがちだ。情報の統制(情報の政治)などで、上からあやつられやすい。
国民そのもの(presentation)ではなくて、その代理(representation)にとどまるのが政治家であり、表象だ。表象なのが政治家なのだから、国民にうそをつく。政治でつかれるうそは危なさが大きいから、批判が欠かせない。
参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『情報政治学講義』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『うその倫理学』亀山純生(すみお)