ロシアだけではなくて、ウクライナも批判されるべきなのか―ウクライナへの批判はいらないのか

 ロシアの大統領だけが批判されているのはおかしい。ウクライナの大統領も批判されてよいはずだ。森喜朗元首相はそうしたことを言ったという。

 森元首相がいうように、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領だけではなくて、ウクライナの大統領もまた批判されるべきなのだろうか。

 戦争をしかけたのはロシアなのだから、なによりもロシアのプーチン大統領が批判されるべきだろう。

 人それぞれによって色々な見なし方があるだろうけど、森元首相の言うことにも一理あるところがないではない。ひんしゅくを買ってしまうかもしれないが、そう見なしてみたい。

 ロシアの長とウクライナの長の二人を比べてみると、共通点と相違点がある。

 共通点としては、どちらも政治家(大統領)だ。政治家は国民そのもの(presentation)ではなくて、国民の代理(representation)だ。

 ほかの共通点としては、どちらも国家主義(nationalism)によってしまっているところがある。国家主義によって国の中をまとめようとしている。自国は正しいことをやっているとか、自国はよい国だといったことで、自国の国民をあおり、たきつけている。戦争へと人々を動員(mobilize)している。

 内部で結束する(bonding)のと、国どうしなどの橋わたし(bridging)があるけど、ロシアもウクライナも、内部で結束を強めるのにとどまっている。それが主になっている。前もって橋わたしの交通にすごい力を入れていれば、ロシアとウクライナが戦争をやるのを避けられたかもしれない。橋わたしによるようにして、国を超えた脱国家主義(trans nationalism)によって行く。

 ひとたび戦争がおきてしまったあとでも、すぐに橋わたしに力を入れれば、戦争を早めに止められるかもしれない。そうではなくて、戦争がおきているさいちゅうに(も)、内部で結束を強めてしまうと、戦争が長びいてしまう。

 お互いに国どうしなどが対立し合うと、おたがいに似てきてしまうところがある。似たものどうしが対立し合うようなことになることがある。似ても似つかないような月とすっぽんのようなものどうしだと、次元や水準が食いちがうから、対立はおきづらい。

 相違点としては、政治家としてまったく同じ水準なのではなくて、ロシアの長は劣っていて、ウクライナの長のほうが優れているのはあるだろう。どちらのほうがましかといえば、ロシアの長よりもウクライナの長のほうがまだましだ。

 ウクライナの国民を批判するのとはちがって、ウクライナの政治家を批判することはできそうだ。政治家のなすべきこととしては、できるだけまわりの国と仲良くして行く。日ごろからまわりの国と仲良くしておいて、できるだけ戦争がおきないようにして行く。外交の交通の努力を日ごろからこつこつと地道に積み重ねて行く。

 色々な見かたが戦争にたいしてはできるけど、一つには、合理によるのであれば戦争は避けられるとするのがある。二つの国があって、いっぽうの国が合理により、たほうの国も合理によるのであれば、合理の落着の点にいたれる。合理の落着の点は、戦争を避ける平和のあり方だ。

 どちらかが不合理だったり、どちらも不合理だったりすると、国どうしが戦争をやり合うことになってしまう。ロシアが不合理なことをやって戦争をしかけたのはあるけど、ウクライナウクライナで、合理の落着の点にもって行くための最大限の努力を政治家がしていたのかどうかは、必ずしも定かではないかもしれない。

 戦争がおきてしまったら、合理の落着の点にいたるのに失敗したことになるから、その点では、戦争をやっている国の政治家は批判される見こみがある。まったくいっさい政治家にたいして批判がいらないとまでは言い切れそうにない。

 ロシアだけが批判されるべきであり、ウクライナには批判はいらないとするのがあるけど、それとはちがって、(ウクライナの国民ではなくて)ウクライナの政治家にたいしては、もしかしたら批判をすることがいるかもしれない。

 政治家は表象だから、表象にたいしての批判はいる。国民そのものとずれてしまうのがあるのが表象であり、国民にうそをつくことが少なくない。政治家は語り(カタリ)によるのがあるから、そこに気をつけることがいる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『政治家を疑え』高瀬淳一 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)