日本の医療の世界は、努力が足りていないのか―医療は、なまけているのか

 医療にたずさわる人たちの、努力が足りない。もっと努力しないとならないけど、それができていない。ウイルスへの感染がつづく中で、医療の関係者を悪玉化することが言われていた。

 努力が足りていないのが、医療の世界なのだろうか。そう問いかけてみると、努力が足りないのは、医療の世界であるよりも、それをとり巻く人々(国民)のほうである。そう見られそうだ。

 みんながものすごく健康に注意して、健康な生活をおくるように最大の努力をすれば、医療にかかる人が減る。医療にかけるお金を最小にすることができる。節約できる。

 むずかしさがあるのが医療だと見なせるのがあって、むかしは治せなかった病気が、科学が進んだことで治るようになった。そのいっぽうで、いまだに治すことができない病気はいっぱいあるし、病気の数がどんどん増えていっている。

 根本から治すことができない病気は色々にある。かぜひとつをとってみても、かぜの根本の原因はわかっていないとされていて、根本から治すことはできない。表面の対症の療法しかできないものは少なくない。

 すごい強みをもっているのが西洋の医療だけど、欠点もまたある。悪くなっているところを速くに治すことができるのが利点であり、速効性をもつ。器質がおかしくなっているのを治すのに長けている。そういう強みはあるけど、欠点としては、機能がおかしくなったり弱まったりしているのは、何とかしづらい。機能の弱まりを、向上させづらい。

 効力感と無力感の二つがあるとすると、西洋の医療は、効力感をもっているのがあるともいえるし、無力感があるともいえる。そのどちらもあるものだろう。効力感をもっているから、病気を治すのにすごい力があるけど、その裏を見てみると、うまく治すことができない病気もいっぱいあるから、無力感もまたある。無力でもあるのだ。

 空いている空白を埋めるのが西洋の医療のやり方であり、何かの手を打って、空白をなくして行く。積極のものだ。空白をあけたままにして、何も手を打たない消極のあり方を、うまく説明できない。ほかに西洋の医療では説明できないこととしては、科学を超えた奇跡を説明することができない。

 文明がすすんで、とても便利な生活をおくれるようになったけど、それによって人の体が弱まっていっている。たとえ医療がどんどん進んでいっているのだとしても、それと反対に人の体がどんどん弱まっていっているのもあるから、医療がすすんでいるのが(人の体の弱まりに)追いつかない。

 世界でみたら、日本の食は健康によい。もともとはそうだけど、いまは世界主義(globalization)が進んでいっていて、アメリカ化や西洋化が進んでいる。日本の食はアメリカ化や西洋化しているのがあるから、食が不健康になっているところがある。どうしても、食べておいしいものは体に悪いところがあるから、そこが悩ましい。

 いまは世界じゅうでウイルスへの感染がおきていて、医療がひっ迫している。医療にたずさわる人たち(そのほかの対人の労働の人たちも)は、とんでもない努力を強いられている。すごい神経を使わせられている。(あれせよとかこれせよとかの)たくさんの要求がつきつけられていて、要求の量が増えていて、疲労がとれない。さわやかな疲労ではなくて、ぐったりとした疲労がたまる。

 すごいたいへんになっている状況の中で、医療といえば、ふつうは西洋の医療を連想するけど、それには利点もあれば欠点もあるし、効力感もあれば無力感もある。強みもあれば弱みもあるから、一つの視点からだけではなくて、もっとちがう視点からも見られるのがありそうだ。たとえば西洋を標準とするだけではなくて、東洋のあり方を見直すようにしてみる。西洋は分析のあり方だけど、東洋は包括(包摂)のあり方だから、そのよさもまたあるだろう。

 参照文献 『木を見る西洋人 森を見る東洋人―思考の違いはいかにして生まれるか』リチャード・E・ニスベット 村本由紀子訳 『目からウロコのネジレ学入門 すべての病気は背骨の捻(ね)じれから』浜田幸男 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『おいしさを科学する』伏木亨(ふしきとおる) 『医者のいらない暮らしがしたい』丁宗鐵(ていむねてつ) 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『疲労とつきあう』飯島裕一 『河合隼雄対話集 科学の新しい方法論を探る』河合隼雄(はやお)