ロシアとウクライナの戦争と、悪と病気―病気としての悪

 ロシアとウクライナの戦争を、医療の点から見てみられるとするとどういったことが言えるだろうか。

 医療の点からは、西洋の医療と東洋の医療の二つに分けられる。

 医者では、名医とやぶ医者がいる。

 治療では、事前の予防と、事後の治療があげられる。予防はやりやすいが、治療はむずかしい。治療にはより労力がかかる。

 いまロシアが引きおこしている戦争は、体のどこかの部分に病気がおきてしまったことに例えられるかもしれない。

 西洋の医療では、要素還元主義がとられる。科学のあり方だ。体を部分に分けて、部分ごとにとり組んで行く。

 世界の全体を、一つの体だといえるとすると、ロシアは体の中のどこかの部分だ。体を分けて要素に還元して、部分に分解したうちの、一つの部分に当たるのがロシアだ。

 体を分節化して、ここが頭で、ここが目で、ここが鼻でと分けられる。そのように世界を分節化して分けたさいに、そのうちの部分であるのがロシアだ。

 体であればたとえば鼻のような部分なのがロシアだが、そのロシアが戦争を引きおこしている。ロシアが悪くなっているのがあり、病んでいると言える。

 ロシアだけが悪くなっていて病んでいるのであれば、体で言えばたとえば鼻だけが悪くなっている。西洋の医療の発想からはそう言えるのがあるが、東洋の医療からはまたちがう見かたがなりたつ。東洋の医療では、体の全体を丸ごとつながりとしてとらえようとするのがある。

 体を有機体として見る東洋のあり方からすれば、部分であるロシアだけが悪くなっているのではなくて、全体である世界がおかしくなっている。体の部分だけが悪いのではなくて、体の全体が悪くなっている。

 じっさいの体を治すのは医者だけど、政治においてそれに当たるのは学者などだ。学者や知識人が、政治においては医者のようなものに当たる。

 ロシアには名医すなわちすぐれた学者や知識人がいるだろうけど、それらの人たちは排除されているものだろう。やぶ医者のような、権力の奴隷たちが上にとり立てられていて、表舞台で活躍しているものだろう。

 いま戦争をやっているロシアだけではなくて、日本の国はどうかを見てみると、そもそも日本にはあまり名医がいない。名医の数が少ない。日本では、名医をよしとする文化があまりないから、あまり数がいないし、なおかつ排除されやすい。やぶ医者だらけである。権力の奴隷がたくさんいて、表舞台にうようよしている。それは日本のテレビ番組を見ると明らかだ。

 西洋に比べると、日本は名医の厚みがなくて、やぶ医者が幅をきかせやすい。やぶ医者にはこと欠かない。やぶ医者が名医みたいなことになってしまっている。しろうとであったとしても、専門の医者のように見せかけられる。

 現代思想でいわれる、薬と毒の転化(pharmakon)がある。日本では、やぶ医者による薬が、毒に転じている。薬が、じっさいには毒なのである。名医であれば、毒が薬に転じることになる。日本と同じように、ロシアでも、やぶ医者が薬を出していて、それが毒に転じているものだろう。

 体または心をきちんと治せなくなっているのが、いまの世界のありようだ。やぶ医者ばかりがいて、きちんとしたまともな名医が排除されてしまっている。

 体や心を治せなくなっていて、どんどん悪くなっていっている。悪さが深まっていて、病が膏肓(こうこう)に入った。いまロシアが戦争をやっている中で、へたをするとそう言えるおそれがある。

 体がどんどん死に向かって進んでいっている。死の欲動(thanatos)が強まっていっている。死に向かっていっているのを、止めようがなくなっている。世界についてをきびしく見てみればそう言えそうだ。

 西洋の発想からすれば、体でいえば部分に当たる、ロシアだけを切除して、ロシアだけを何とかして行く。ロシアだけを切り取って、そこにたいして集中して何とかすることが行なわれる。それがはたしてできるのかと言えば、必ずしもできるとは言い切れそうにない。

 西洋の近代の発想は機械論であり、離散(digital)による。体の部分は部品に当たる。部品が悪くなっているのなら、そこだけ直したり取り換えたりすればよい。部品がうまく適合しなくなったら、適合するように改善すればよい。不適合な部品はいらないのだから、それは不用なので捨ててしまう。

 東洋の発想からすると、有機体論や全体論(holism)によるのがあり、連続性(analog)による。部分どうしが互いにつながり合う。部分どうしが互いに相互作用をおこしている。全体は部分をうつし出し、部分は全体をうつし出す。全体と部分が互いに照応し合う。呼応し合う。部分だけではなくて、全体を見ることもいる。

 森と木でいえば、森の全体がどうなのかがある。森の中の部分である木に、全体がうつし出される。木を見ることによって、森をとらえることができることがある。森の全体が、世界であるとすると、その中の部分である木だけが悪くなっているのではなくて、森の全体が悪くなっている。部分である木を見ながら、それとともに森の全体(またはほかのいろいろな木)を見て行くこともいる。

 参照文献 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編