首相が持ち出している過去の日本の国の事例は、まったく完全なでたらめや嘘っぱちというのではないにしても、不自然かつ中途半端である

 日本はかつて世界に人種の平等をうったえた。首相は、国会の所信表明演説においてそう述べた。

 かつての西洋では、欧米の植民地支配が広がっていた中で、日本はそれに抗った。その中で日本が訴えた理想は、国際人権規約などにつながった。日本がうったえたことが、国際的な基本原則につながった。

 首相は所信表明演説でこうしたことを言ったというのだが、色々とつじつまが合わないところがあるのが見うけられる。まず、普遍的な人権というのは、東洋ではなくて西洋でつくられたものだ。日本がうったえてできたものではない。人権というのは西洋の近代の個人主義に根ざしたものである。日本はどちらかというとそれをとり入れた側だ。

 かつての日本には、人種の平等を国際的にうったえるなどのよいところもあったのはあるだろう。そうであるにしても、首相が言うことでは、日本という国に効力感をもたせようとしすぎるあまり、都合のよいところだけに焦点を当てて誇張してしまっているのはいなめない。

 首相は日本という国に効力感をもたせようとしすぎるあまり、言っていることのつじつまが合っているとは言いがたい。かつての日本は、建て前としては理想となるようなよいことを言ったのはあるが、建て前とじっさいがいちじるしくずれた。じっさいに日本の国がやったことは、植民地支配や拡張主義だ。それはかつての西洋の列強のあと追いだった。

 日本の国内では、軍部による統帥(とうすい)権というのがひとり歩きして、軍事独裁となって、歯止めがきかなくなった。軍部が暴走したのである。統帥権というのは、文民統制(シビリアン・コントロール)の反対となるものである。全体主義国家となって、軍部に歯向かう者は殺された。排外や排他のあり方がとられて、人種の平等はとられず、不平等がまん延した。

 大きな失敗をしたのが日本なのであって、かつての日本はよかったのかというと、そうとは言えそうにない。色々な見かたができるだろうから、絶対にこうだと言うのはまちがいかもしれないが、そもそも、かつての日本はすごかったとかえらかったという例として首相が持ち出していることは、それそのものが自民族中心主義のようになってしまっている。われわれの民族(日本)はすごかったのだというふうになってしまっている。それは自民族を中心とする発想だろう。

 いまの日本に欠けているのは何か。そう問いかけられるとすると、とりわけいまの日本の政治に欠けてしまっているのは、東洋で言われる仁愛ではないだろうか。仁愛が欠けていて、不仁がおきている。人種を含めた不平等というのもその一つだ。

 仁という字は、人が二つというふうに記す。人どうしのあいだにあるべきことや、あることがいることをさす。それが欠けているのが不仁である。

 日本をよしとする者をとり立てて、よしとはしない者を遠ざける。日本にきびしいことを言う者をうとんじる。このあり方は、日本の中央の権力に同化させようとするものであって、ちがう者であったとしてもよいのだとする人種の平等にそぐうものだとは言えそうにない。日本をほめようが、それとも批判しようが、同じようにあつかわれるのでないと、ちがう者でもよしとする人種の平等にはつながりそうにない。

 いまの日本の国内において、日本ではない他の人種や民族を否定するような排外や排他の動きがおきているが、それがあるようでいて、どうしてかつての日本は人種の平等を国際的にうったえたと胸をはってほこれることができるのだろうか。これははなはだしい欺まんだと言うしかない。

 参照文献 『日本の「運命」について語ろう』浅田次郎 『二〇世紀を一緒に歩いてみないか』村上義雄