日本と韓国のあいだにおける国どうしのぶつかり合いと物象化(物と化す)―不仁と倫理観の欠如

 日本と韓国は、政治において対立している。こういうときだからこそ、民間ではお互いの国が交流を深めて行ってもらいたい。文化の交流をして行ってもらいたい。日本の与党の政治家はそう言っていた。

 日本と韓国が政治において対立していることで負の影響がおきているが、それがおきたことを受けてあわてて日本の与党の政治家は、民間においてはお互いの国の交流が大事だと言う。

 日本と韓国のあいだで、政治で対立しているのはさしあたっては置いておいて、民間どうしでは交流を深めて行く。それは決して悪いことでも意味のないことでもないだろう。そうではあるのだが、日本と韓国とのあいだで政治において対立してしまっていることの、問題の所在を見ることがいちばん大切なのではないだろうか。

 国どうしのぶつかり合いについてを見てみると、それがひどくなると死の世界になる。国どうしが互いに物象化(物と化す)して行く。それが行きつく究極の先は戦争だ。戦争では国民が物象化されて、たんなる数(員数)であるのにすぎなくなる。国家の手段や道具として国民があつかわれることになる。

 国どうしがなるべくぶつかり合わないようにするのは、物象化に抗うことであって、反物象化だ。そうして行けるだけの知恵が、いまの日本の政権にあるとは見なしづらい。日本の時の政権が愚かであることで、損や被害をこうむるのは、日本の国民なのではないだろうか。それで、国民に向かって、民間どうしでは交流しろというのは、日本の政権は自分たちの愚かさを棚に上げてものを言っているように映る。

 日本と韓国が政治において対立していることの問題の所在として、不仁となっているのがある。日本の政治では、仁が欠けていて不仁となっている。仁という字は、人と二と書くが、人と人とのあいだにおいて欠かせないものである仁が欠けているのが日本のあり方ということになるのだととらえてみたい。それで日本と韓国が対立することになっているのだ。

 日本の政治は、不仁となっているのを改めて、仁をもつようにして、韓国にたいして愛と尊敬を持つようにするのはどうだろうか。そうして行くことによって、日本と韓国とが政治において対立しているのを和らげることに役に立つ。愛というのはたがいの距離を近づけるものであり、尊敬というのは適した距離をとることだ。その二つがいるというわけだ。

 不仁となってしまっているのは、なにも日本と韓国とのあいだでおきている政治の対立だけに限られない。とくに日本の社会の中で、不仁になってしまっていることがおきていて、ぎすぎすしたようになっている。社会の中で人々が消耗して、疲労させられる。ストレスが大きく、キラー(殺人)ストレスにさらされている人もいる。

 社会の中が負のあり方になっているおおもとに、不仁であるということがある。そのおおもとにある日本の社会の中における不仁が、日本と韓国との政治における対立として表現されているという見なし方がなりたつ。

 もしも日本の社会において、不仁にはなっていなくて、仁に満たされているのであれば、もっと人々は生きて行きやすいはずだ。少なくとも、もうちょっとは生きて行きやすくなっているはずである。

 それぞれの個人が置かれている状況はそれぞれでちがうから、いっしょくたにすることはできないが、みんながもれなく十分に生を充実させることができているのかといえば、そうとは言えそうにない。充実とは反対に、社会の中のあちこちで、うつろな響きがおきているのではないだろうか。

 参照文献 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき) 熊野純彦(くまのすみひこ)編 『現代思想を読む事典』今村仁司