安倍元首相を殺した犯人のねらいをかなえてしまってはならないのか―犯人のねらいは、かなえられるべきではないのか

 いま、韓国の新宗教(旧統一教会)のことをとり上げる。いまそれをやると、安倍元首相を殺した犯人の、思うつぼになってしまう。犯人のねらい通りになってしまう。

 犯人のねらい通りになってしまうから、いま韓国の新宗教のことをとり上げるべきではないのだろうか。とり上げないで、目を向けないようにするべきなのだろうか。

 犯人は、主体であり、殺された安倍晋三元首相も、主体だった。韓国の新宗教もまた主体に当たる。

 主体が、どういった手段をとって、どういった争点をかかげるのかがある。

 主体としての犯人は、とった手段は悪かった。人を殺す手段をとったのがあり、それは正当化されるものではない。

 とった手段は悪かったのだとしても、それと争点を切り分けることがなりたつ。手段のよし悪しとは別に、争点は解消されることがいるものである。

 事件そのものは、あるべきものではなかった。何があるべきことでないのかと言えば、そう見なせる。

 事件がおきたあとに、韓国の新宗教のことをとり上げるべきではないのではなくて、事件がおきるべきではなかった。主体によって、悪い手段がとられるべきではなかった。

 ねらいと、行動があるとして、ねらいが悪かったのではなくて、行動が悪かった。どういうねらいかであるよりも、どういう行動が悪いのかが、法の決まりには定められていて、こういう行動(他者に危害を与える行動)をとってはいけないのだとされている。同じねらい(たとえば、あることに関心を向けさせる)を持っていても、ぜんぜんちがう行動をとることがある。行動は、合法のものから非合法のものまである。

 犯人は主体に当たるけど、もういっぽうには、犯人とは対立していた、安倍元首相や、韓国の新宗教が、主体としている。

 主体についてを見てみると、犯人は、とった手段は悪かった。もういっぽうの主体である、安倍元首相や、韓国の新宗教は、けっして善そのものではない。悪の力によっている。

 それぞれの主体のねらいがあるとして、犯人のねらいは悪くて、安倍元首相や韓国の新宗教のねらいはよい、とは見なせそうにない。ねらいであるよりも、主体である犯人がとった手段が悪かった。

 主体としては、(悪そのものではないが)悪の力によっていたのが安倍元首相や韓国の新宗教だ。安倍元首相は殺されてしまったが、安倍元首相のねらいは、悪かった見こみがある。韓国の新宗教のねらいも、悪い見こみがある。高額なツボを信者にだまして売りつけるような、カルト(cult)の新宗教の見こみがある。日本をだめにしたり悪くしたりするねらいを持っているかもしれない。

 犯人だけを単体で見るのであるよりも、主体どうしが対立し合っていたのを見てみたい。主体どうしが対立し合っていたので、争点がおきていた。その争点は、解消されることがいる。

 どの主体の、どのねらいがより通りやすいのかで、政治の権力は、ねらいが通りやすい。犯人は、主体として、権力者ではなかった。安倍元首相や、韓国の新宗教は、政治の権力の中心にいた。政治でそうとうな力をもっていた。

 かりに、すごい悪政が行なわれているとして、それを正すために、暗殺者が、政治の権力者(独裁者)を殺す。主体としての暗殺者は、とった手段は悪い。手段は悪いけど、争点は悪いとは言い切れない。

 主体がとった手段が悪いからといって、争点まで悪いとはかぎらない。そのさい、犯人(暗殺者)のねらいは、まちがったものだから、かなえるべきではないとしてしまうと、独裁者の思うつぼになる。

 犯人のねらいは、犯人だけにかぎったものではなくて、ほかの人のねらいであることがある。そのねらいは、犯人だけの占有物(所有物)だとはかぎらない。共有されるものであることがある。

 主体として、犯人は、安倍元首相や、韓国の新宗教と対立していたけど、犯人だけではなくて、ほかのいろいろな主体が、安倍元首相や韓国の新宗教と対立している。

 犯人のことを抜きにしたとしても、主体どうしが対立し合っていて、争点があるのだから、その争点が解消されることが必要だ。安倍元首相は、生きているときに、色々な争点がおきていたのにもかかわらず、それを解消しようとせず、無視しつづけた。いろいろな争点があったけど、放ったらかしにされつづけて、不正がおきていたのである。犯人がおこした事件は、そのことと、まったく関係がないものではないだろう。

 参照文献 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん)