広島県での首脳どうしの会議と、それへのデモ―デモの排除と、包摂や客むかえの必要性

 世界の首脳どうしの会議にたいする、デモがおきた。

 日本の広島県でなされた世界の首脳どうしの会議(summit)では、それに反対の声をあげるデモ(demo)がおきたという。デモをやった人の中で、警察につかまった人もいる。

 広島県の首脳どうしの会議で、デモがおきたのがあるが、それをどのように見なせるだろうか。

 西洋の哲学の弁証法(dialectic)では、正と反と合がある。首脳どうしの会議は正だ。それに反対するデモは反だ。

 反に当たるデモを、警察の力によって排除した。正だけになってしまった。正だけをもってしてよしとしてしまったので、正つまり合としてしまったのが、広島県での首脳どうしの会議だろう。

 反をきちんとくみ入れて、正と反をつき合わせて、それで合の止揚(aufheben)にもっていったのではなかった。反を抜きにした、正だけによる合になったのがあり、まちがった全体化がなされたのはいなめない。自由主義(liberalism)からするとまずさがある。正と反の、どちらかだけにかたよるのではない、中立な立ち場から判断する思想なのが自由主義だ。

 日本では、正と反がある中で、きょくたんに正にかたよっていた。かたよったあつかいをしたのがあるから、自由主義の点からは悪いあり方だったのがある。

 たんなる首脳どうしの会議は正であり、そのままのものだ。それにたいして、対抗するものがおきるのがあり、それが反だ。

 どんなものであったとしても、そのままのものではありつづけづらい。正はそのままのものだけど、それにたいして反がおきてくる。(正にたいして)対抗するものなのが反であり、正と反とがぶつかり合う。

 警察の力によって、首脳どうしの会議のデモをおさえこむのではないほうがよかった。正にたいする反なのがデモなのだから、そこで政治をやればよかった。正と反とのあいだに対立があるのは、そこに政治があることをしめす。

 正と反が対立している中で、それらをつき合わせることをやらないことが多いのが日本だ。広島県の首脳どうしの会議でも、それが見られた。自由主義によって、正と反のどちらかにかたよるのではない、中立な立ち場から判断するのがいるのがあったけど、それができていなかったのである。

 かたよりすぎていたのが、広島県での首脳どうしの会議だった。正をよしとしすぎていて、反を強く排除してしまったのである。日本の国をよしとするのや、アメリカをよしとするのがあり、専制によっていた。自由が失われていた。

 日本やアメリカの、上からの専制のもよおしだったのがあり、(自由ではなくて)強制のところが大きかった。上から強(し)いるあり方だったのがあるから、もっと自由なほうがよかったのがあり、自由主義によるのでなければならなかったから、そこが悪い点である。デモを排除するのではなくて、包摂や客むかえ(hospitality)をしたほうがよいあり方になったのがある。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『対の思想』駒田信二(しんじ) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』原野翹(あきら) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正