自由の危機が日本でおきている―自由や自由主義の危機をどのように改善するべきか

 自由の危機が日本でおきている。危機がおきているのをどのように見なせるだろうか。

 自由の危機は、自由主義(liberalism)の危機をふくむ。右傾化が強まっているのがいまの日本だろう。反権力の学者の人たちが排除されている。反権力の表現が排除されることがおきている(あいちトリエンナーレの、表現の不自由展など)。

 自由の危機においては、このように見なしてみたい。事実(is)と価値(ought)の二つを分けて、価値については自由でやって行く。価値については自由つまり論理によるようにして行く。

 論理では、こうであればこう、といった形でやって行く。いろいろな選択肢がある中で、そのなかの一つを取ったとすればこう言えるが、ちがう選択肢を取ったさいにはちがうことが言える。ゆいいつにして絶対の選択肢はない。ゆいいつにして絶対の選択肢があるのだとしてしまうと、自由ではなくて道(武士道などの何々道)になってしまう。

 自由ではなくて、道(何々道)がよしとされるのが日本ではあるから、そこから自由の危機がおきやすい。道ではなくて、自由をよしとするほうがよい。自由をよしとするようにしなければならない。そのように見なしてみたい。道よりも自由をよしとするべきだとはいっても、あまりそれを強調しすぎると、自由道みたいになりかねないからそれには気をつけたい。

 いくら自由がよいとはいっても、それを絶対化して自由道のようにはできそうにない。自由は価値の一つであり、価値はいろいろにあるから、(価値どうしの)つな引きのようになる。自由の価値だけをよしとするよりも、つな引きにして、たとえば自由と(その反対の)統制とをぶつけ合わせて緊張を引きおこしたほうがより深みが出る。自由だけだと(反対に当たるものがなくて)つな引きにならなくて緊張がおきないから深みが出づらい。

 地球は丸いとか、世界の中に日本の国があるといったことは、客観のことだから事実に当たる。太陽は東からのぼって西にしずむとか、朝のつぎは昼で昼のつぎは夜だといったことは事実に当たる。

 事実に当たることは一つの見かたに集約しやすいことだけど、価値に当たることは自由であることがいる。価値に当たることでは、日本はどのようにするべきかがある。日本の国の政治で、どのようなことをやって行くべきかがある。

 日本は何をなすべきかは、事実に当たることではなくて、価値に当たることだから、そこで最高の価値のようなものをもち出すと、自由がなくなってしまう。日本の国(お上)が最高の価値をもつのだと、自由ではなくて道(何々道)のあり方になってしまう。

 自由がよしとされるのではなくて、道がよしとされやすいのがあるから、日本道みたいになりやすいのが日本だ。国家主義(nationalism)が強まっているのがあるので、日本道のあり方が強まっている。自由が損なわれている。自由主義が大きくこわされている。

 だれもが認められる(認めやすい)ことが事実だから、それは置いておいて、そのほかの価値のことについては、自由にやって行く。論理でいろいろな選択肢をとりあげて行く。ゆいいつにして絶対の選択肢とはしないで、複数化して行く。

 国が価値についてを上から決めつけてしまう。そこから日本では自由の危機がおきてしまっている。国が上から価値を決めつけないようにして、国が個人の内面に入りこまないようにする。個人の私が、自由にいろいろなことを言えるようにして行く。個人の私を重んじるようにして、国家の公を肥大化させないようにする(国家の公の肥大化を改める)ことが、自由の危機を片づけて行くためにいる。そう見なしてみたい。

 参照文献 『「自由」の危機 息苦しさの正体』藤原辰史(ふじはらたつし)他 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『右傾化する日本政治』中野晃一 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『公私 一語の辞典』溝口雄三