いまの現実に合っていなくて、現実に追いついていないのが憲法だから、変えることがいるのか

 日本の憲法がある。憲法第二次世界大戦が終わったすぐあとにつくられたものだ。それから時間がたっているので、憲法はいまの現実には合っていない。いまの現実に追いついていない。変えるべきものだ。与党である自由民主党菅義偉首相はそう言っている。

 菅首相が言うように、日本の憲法はいまの現実に合っていないのだろうか。いまの現実に追いついていないものが憲法なのだろうか。いまの現実に合っていない憲法を変えることがいるのだろうか。

 追いつき追い越せ(catch up)で言えるとすると、戦後において日本の社会は西洋の社会にあるていどは追いついたとされる。だいたい一九七〇年代の終わりくらいまでかかり、一九八〇年くらいにはあるていど追いつくことができた。いろいろな点から見られるのがあるから、いちがいに日本の社会が西洋に追いついたとは言い切れないが、一つの視点としてはとれるところがないではない。

 社会のありようとはちがい、憲法と現実とでは、憲法に現実が追いついたとは言えそうにない。憲法と現実とは距離があり、それが埋められていない。憲法に現実が追いついて、現実がそれを追い越したのだとはとうてい言えないものだろう。

 哲学の新カント学派の方法二元論で言われるように、事実と価値を分けて見てみたい。そのさい、現実は事実に当てはまる。憲法は価値に当てはまる。また、事実として憲法があることと、その憲法がどのような価値を持っているのかに分けて見てみることがなりたつ。

 現実は事実に当たるものであり、現実からは価値は出てはこない。現実がどのようであったとしても、そこから価値を切り離せるのがある。たとえば、現実に戦争が行なわれているからといって、それそのものをもってして価値が導けるものではないだろう。戦争がよくないものだとするのは、価値の点からものごとを見ることである。

 現実に人権の侵害が行なわれているのがあるが、そのことをもってして、それそのものに価値があるとは言えそうにない。人権の侵害がよくないことなのは価値の点から見たさいに言えることだ。現実に人権の侵害が行なわれているからといって、現実に合っていない憲法を変えようとはならないものだろう。

 いまの現実に合っていないのや、現実に追いついていないことをよくないのだと見なす。そのことを大前提の価値観とするのはむずかしい。そもそもの話としては、憲法よりも現実のほうが先に走っているのであれば、現実が理想であり、憲法が現実である、といった変な話になってしまう。

 現実が優で、憲法は劣だとするのは、とらえちがいになっているところがある。現実が劣で、憲法が優だと見ることは十分にできることだ。そう見なすことができるのは、憲法は価値に当たることであり、理想論に当たるのがあるからだ。

 どの時点で憲法がつくられたかの点では、戦争がおきたすぐあとに憲法をつくったからこそすぐれたものができたと見なせるのがある。戦争の経験がまだ生々しくて風化していない時点だから、理性として反省ができやすい。戦争のような大きな暴力によって、まさに自分が死ぬといった死の恐怖がないかぎり、人間はなかなか理性の反省ができないものだから、いついかなるさいにもそれができるのではない。

 たとえどの時点において憲法をつくるのであったとしても、その時点におけるすぐれた専門の知が生かされるのがあるから、古いときにつくられた法だからといってそれが劣っているとは言い切れそうにない。すぐれた古典の数は少なくはないように、古いときのほうが(相対的に)人々の頭がよかったおそれはある。または逆に、どのような時代であったとしても人々は多かれ少なかれ愚かだとも言えるかもしれない。人類の歴史は戦争の歴史であり、戦争は愚かなものだと言えるだろう。

 かくあるとかくあるべきの点では、かくある(is)に当たるのが現実であり、かくあるべき(ought)に当たるのが憲法だろう。かくあるものなのが現実だとは言えても、それをかくあるべきなのだとは必ずしも言えそうにない。もしも、かくあるものである事実を、かくあるべきなのだと言えるのであれば、そのことは憲法についてもまた言えることになる。いまのかくある憲法についてを、事実としてかくあることから、かくあるべきものだと見なすことができる。

 事実の点から見てみられるとすると、かくある現実と、かくある憲法とがある。事実であるかくあるの点だけからは、それがとんでもなく悪いとは言い切れないし、とんでもなくよいとも言い切れそうにない。事実としての現実は、あくまでもかくあるものとしては受け入れることができるのと同じように、事実としての効力をもっている憲法は、あくまでもかくあるものとしては受け入れることがなりたつ。

 自然主義の点から見てみられるとすると、かくある事実としての現実があることをもってして、かくあるべき現実なのだとは言い切れそうにない。かくあることから、かくあるべきを導いてしまうと、誤びゅうになるのがある。かくある現実から、かくあるべき現実とするのであれば、かくある憲法から、かくあるべき憲法だとも言えることになる。かくある事実としての憲法から、かくあるべきではない憲法だとは、かならずしも言うことはできないだろう。

 現実や憲法がどうあるべきなのかは、人それぞれによって色々に言えることだから、さまざまなことが言われるのがのぞましく、開かれたなかでさまざまな論点について自由な論争が行なわれたほうがよいのはたしかである。いまの日本の憲法はだれがどう見ても最高の価値をもつものだとは言えないから、価値の絶対論では見られず、価値の相対論によるのがふさわしいものだろう。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『考えあう技術 教育と社会を哲学する』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 西研