日本と、内と外とのあいだの線引きの政治性―線引きと、(外国人への)排除の暴力

 どうやったら、日本にやって来た外国人を、生かすことができるのだろうか。(入国の管理の施設の中で)死なせずにすむのだろうか。

 なにが、わざわいしているのか。国どうしのあいだの境界の線が、わざわいしている。そう見なしてみたい。

 国どうしのあいだの線引きによって、日本にやって来た外国人が、死ぬことがおきている。日本の中で、外国人が死ぬことのもとになっている。

 人為や人工によって作られたものなのが、国境の線引きだ。人の手によって構築されたものだから、変えることがなりたつ。

 たとえ変えることがなりたつものでも、なかなか変えづらい。そうしたものも少なくない。変えることができるからといって、それをじっさいにたやすく変えられるとは必ずしもかぎらない。

 国境の線引きを、自然化する。あたかも自然なものであるかのようにする。そこには、神話の作用がはたらく。

 日本は、国境の線引きを、自然化してしまっている。それを脱自然化するようにしたい。そうしてみれば、国境の線を引き直すことがなりたつ。

 いまの時代は、色々なものが、国境の線をいともたやすく飛びこえる。国境の線を超えて、色々なものが交通し合う。ものや、人や、お金や、情報などが国を超えて交通し合う。

 自然化されている国境の線引きを、脱自然化して行く。そうしたほうが、日本人にとっても、外国人にとっても、どちらにとっても幸福につながる。日本人も外国人もどちらもが幸福になれる。

 国境の線引きを自然化してしまうと、日本人も不幸になるし、外国人もまた不幸になってしまう。そうした見こみがある。なぜそうなってしまうかといえば、いまの時代は、かつてとはちがって、ものや人やお金や情報などが、国を超えてさかんに交通し合うからだ。世界主義(globalization)のありようになっていて、国の中が穴ぼこだらけで多孔化している。とじた体系(system)がなりたちづらい。

 戦後の日本は、一国だけによる体系とはいいがたい。アメリカとゆ着し合う。日米が合わさって、日本の国体(nationhood)ができ上がっている。アメリカが上で、日本が下だ。

 文化では、文学なんかでは、戦後の文学は、洋文脈の色あいが濃い。日本の文学は、日米の文学(日米の文学つまり日本の文学)のようになっているところがある。日米のあいだの交通だ。戦後はアメリカ時代だから、アメリカ化つまり世界化であり、アメリカの影響は強い。日本では、アメリカが天皇(国の外にある天皇)になっている。

 日本人を生かす。外国人も生かす。その二つをなすためには、日本の国境の線引きを自然化しないようにして行く。脱自然化するようにして行く。国境の線を引き直す。線を、太く強く引いて、実線にしないようにする。弱く引いて、点線にして、破線にするようにする。すき間が空いた線にするようにする。

 どのみち、日本の国のお金であったとしても、国の外に出て行ってしまう。人もまた、国の外に出て行ってしまう。産業も出て行ってしまうし、企業も出て行ってしまう。国の外への交通がおきてしまい、国境の線がかんたんに飛びこされてしまう。

 国境の線をたやすく飛びこえる交通がおきているのがいまの時代だから、いくら日本が国境の線引きを自然化したところで、日本人は幸福にはならない。外国人も幸福にはならない。そうなってしまいそうだ。国境の線を脱自然化したほうが、日本人も外国人もみんなが幸福になりやすい。うまくすればそうなることがなりたつ。線引きを見直すようにして、脱構築(deconstruction)したほうがよい。

 参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『地域国家論(The End of the Nation State)』大前研一 山岡洋一、仁平(にひら)和夫訳 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし)