この人しかいないと言えるくらいにすごい政治家は現実にいるのかどうか―効力感と無力感

 政治家の個人を強く支持する。政治家の個人に焦点を当てる。それをしすぎると、その人しかいないというふうになりがちだ。

 政治家の個人をよしとするさいに、その人しかいないとかその人しかありえないということははたしてあるのだろうか。そうしたことはあまりないことなのではないか。

 政治家の個人にあまりにも強く焦点を当てすぎてしまうと、政治家に強い威光がおきることになってしまう。強い威光がおきてしまうと、あたかもその政治家がとんでもなくすごい人だというふうに見なされることがおきてくる。

 強い威光がおきることによって、とんでもなくすごい人だと見なされることがおきるとしても、じっさいの政治家の個人は、そんなにすごい人はいないのではないだろうか。

 力量をどのくらいもっているかがある。ものすごい効力感をもっているか、それともすごく無力かがあるとすると、たいていの政治家の個人は無力なものだろう。無力であるのにもかかわらず、あたかもすごい効力感をもっているかのようによそおう。人間は無理をすると失敗することがある。無理がたたって失敗をしでかすことになり、政治では政権がまちがったことを色々としでかす。いまの政権にはそれが目だつ。

 じっさいには無力なのにもかかわらず、すごい効力をもっているかのようによそおい、演出をすることによって、政治家の個人がすごく高い実力をもっているかのように受けとることになる。演出がほどこされるからすごい政治家だとされるのがあるので、それをさし引いてしまえば、そこらへんにいるただのふつうの人とそんなにはちがわないことがなくはない。

 かけがえがないくらいにすごい政治家だとされているとしても、そこには演出がかかっていることがあるから、つくられた政治家の表象にすぎないことがある。その表象においてはものすごい効力感をもった政治家にしたて上げられているとしても、それはいわば虚像のようなものであり、じっさいのありのままの姿は、そこらへんにいるただのふつうの人とさしてちがわず、かけがえがある。とりかえがきく。

 もしもとんでもなくすごいとされている政治家がいるのだとしても、それはあくまでもつくられた政治家の個人の表象にすぎない。演出されてしたて上げられている。そういうことがあるから、その点には少しだけ気をつけておいてもまったく無駄になることはないかもしれない。

 もともと政治家というのは、国民そのものではないから、国民とのあいだにずれがあるものであり、まったく国民とぴったりと一致しているものではない。そういう点で政治家は表象にすぎない。政治家のもっている思わくや意図は、えてしてどれだけ自分が票をとれるかが主となっているものであり、日本の国や国民のことを第一におもんばかっているのだとは言えそうにない。

 あんまり政治家の個人を持ち上げすぎないようにして、そこに焦点を当てすぎないようにするのは一つの手だろう。たいていの政治家の個人というのは、かけがえがないことはまずないことであり、とりかえがきくことが少なくないものだろう。それがかけがえがなくてとりかえがきかないくらいにとんでもなくすごい人だとか、ほかの人では駄目でこの人でないと駄目だということになってくると、その政治家の個人に強く焦点が当たりすぎているおそれがある。強く焦点が当たりすぎることで表象があたかも現実そのもののごとくに見なされている。

 政治家が美化されるのはあまりよいことではないから、そこをさし引くようにして、善人そのものみたいなとらえ方はしないようにすれば、つり合いを少しはとりやすい。政治家の個人は、たとえよい人であったとしても、半分はよいかもしれないが半分は汚い。政治にはどろどろとした暗いところがあるから、そこを避けて通ることはできづらく、半分くらいは汚くなってしまうものだろう。いまの首相による政権は、半分どころではなくて、ぜんぶというと言いすぎかもしれないが、そうとうに汚いことになっているような気はするが。自浄作用もはたらいていない。

 参照文献 『政治家を疑え』高瀬淳一 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『現代思想を読む事典』今村仁司