首相の個人の病気については慎重な言及が求められる―政治の文脈についてはきびしく見て行くことがいる

 大事なときに体を壊す癖がある。危機管理能力がない。野党の議員はツイッターのツイートで首相についてをそう言ったことから、このツイートに批判の声があがった。それで野党の議員は発言についてを謝罪していた。

 野党の議員のツイートにまずいところがあったとするとどのような点があげられるだろうか。その点については、もうちょっと色々なことを腑分けした形でツイートをすればよかったのはあるかもしれない。腑分けをすることができるとすれば、大事なときに首相がじっさいに体を壊したのはいちおうの事実ではあるだろう。そのことを癖だとしてしまうのは不適切な言い方になりかねない。

 大事なときに体を壊すとはいっても、いつもいつも首相が大事なときに体を壊してきたのではないだろう。これまでにいくつもの公のことを首相はこなしてきたのがあるから、その点でいうと、多くの大事なときに体を壊さなかったのがある。

 あらためて見ると、大事なときとはいったいどういうときなのだろう。大事なときとはいっても、少し大事なときやそこそこ大事なときやすごく大事なときのちがいがあるかもしれない。そうした大事なときに体を壊すのはまずいことではあるが、それを逆から見られるとすると、大事なときに体を壊さないのは自明なことなのかどうかがある。健康がありがたい(ありえづらい)ことである点からすると、大事なときに体を壊さないのは当然のことだとは言い切れないかもしれない。見かたを変えて見れば特別なことだとも言える。

 病気というのは、本人がなりたくてなるものではないのがあり、また本人が完全に病気にならないように制御できるものだとは言いがたい。表面として見たら、本人が病気になってもしかたがないような行動をたとえとっていたのだとしても、それだからといって本人に完全に責任があるとは言い切れないことがあり、本人をとり巻く状況をていねいに見て行くことがいることがある。

 病気についてを見るさいには、個人の内の要因だけではなくて、状況の外の要因もまたあるから、状況の要因を見て行くようにして、そこをとり落とさないようにして行くことがいる。そうしないと、たんに本人が悪いとして、個人の要因だけに還元してしまうことがおきてくる。個人の要因だけに還元できるかといえば、そうとは言い切れないことがあり、ほかのさまざまな要因を見て行くようにしたい。

 病気の現象の意味をどう見なすのかや、病気の結果についての原因や要因をどう見なすのかは、たった一つだけの見かたができるものであるよりは、色々な見なし方がなりたつ。

 すべての病気についてを完全に解明しつくせているのではなくて、謎なところがあるだろうし、どのように定義づけをするべきなのかがはっきりとはしないことがある。こうすればこうなるとか、こうだからこうだというふうにはっきりと説明できないものもある。現代の西洋の医療は、治せる病気よりも治せない病気のほうが増えていっていて、限界をもつ。

 現代の西洋の医療は器質の病気には強みをもつが、機能については弱みをもつとされる。数量化や可視化しやすい器質の病気は検査などでとらえやすく処置がしやすい。機能の異常は非数量の質をあつかうためにとらえづらい。機能に異常があって、体のどこかのはたらきが悪くなっているさいには、現代の西洋の医療はとりわけ手を打ちづらい。

 首相が大事なところで体を壊したのはいちおうの事実ではあるだろう。国の政治を会社の経営になぞらえられるとすると、会社の社長は会社のためにできるだけ健康でなければならないのがあるから、それと同じように、首相も個人というよりは公人である点で、一定より以上の健康を保っているのがのぞましい。

 首相がまったく自分の健康に気をとめていなかったのではないだろうから、それなりに健康でいるための努力はしていたはずだとすると、不完全義務(努力目標)をそれなりには果たしていたということになる。

 健康を保つために首相が超人的で完全無欠な努力をしていたとはいえないかもしれない。抜かりがあったのだとしても、一病息災という言葉もあるように、病むのは人間としてある意味では自然なところもあり、また個人差や状況のちがいがあるから、健康や病気の文脈で首相が責められることはいりそうにない。それとはちがい、政治の文脈においては首相についてをかなりきびしく批判によって見て行くことがいる。

 参照文献 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章 『目からウロコのネジレ学入門 すべての病気は背骨の捻じれから』浜田幸男