首相の辞任と反安倍―反何々による有徴化

 反安倍は、首相が辞めることになったから困ることになる。反安倍ではいられなくなる。そう言われているのがあった。

 たしかに、首相が辞めてしまえば反安倍はなりたたなくなるのはある。それについては、首相としての反安倍はなりたたなくなるだろうが、国会議員としての反安倍はなりたつのではないだろうか。国会議員を辞めないかぎりは、首相を辞めたとしても反安倍はいぜんとしてなりたつものではあるだろう。しつこいのはあるかもしれないが。

 このさいに言われている反安倍というのは、記号論から見てみられるとすると有徴化されている。首相をよしとすることはよいまたはふつうなことだから無徴化されて、首相を批判するのは特別なことになり有徴化されてしるしがつく。特別なことなので、反というのが頭につく。そうしたように反安倍を有徴化することはふさわしいことなのだろうか。

 とり上げられなければならないのは、反安倍というよりも、親安倍なのではないだろうか。そのわけとしては、反安倍というのは、首相を批判しているのだから、自分の意見をもっている。だからまだ見こみがある。反対や批判の声をあげるのは自分の意見をもてる利点があるいっぽうで、欠点があるとすれば、ただ反対や批判をしさえすればよいとなりかねない。方法としては反対や批判をするのはそこまで難しくはない。状況としては難しいことはあるが。

 親安倍であると、首相のことをよしとしているだけなので、自分の意見をもっていないことがある。ただ首相のことをよしとするだけで、首相につきしたがっているだけであり、首相に同調や順応や服従しているのにとどまる。政治の時の権力からの呼びかけにすなおに応じている。まひさせられると、政治の時の権力と適した距離がとれない。

 日本の政府はアメリカの言うことややることにそのまましたがっていることが多く、アメリカとはちがい日本はこうなのだという自分の意見をもてていない。日本とアメリカは完全に一致という嘘を言っている。ただたんに日本はアメリカについて行きさえすればそれでよいのだとしてしまっている。これはちょうど、日本の国内において、ただ首相をよしとしさえすればよいとすることに通じる。

 日本の国の中のぜんぶが親安倍の一色なのだとしたら、国の中で抑制と均衡がはたらかず、まちがった方向に向かってつっ走っていってしまう。それを避けるには首相にたいして反対の声をあげる悪魔の代弁者(devil's advocate)がいる。悪魔の代弁者はうとましいことから、それがいることが否定されてしまっていて、排斥または消極にしぶしぶながらいることが認められているのが現実だ。反対の声が積極に生かされていなくて、すくい上げられていない。

 反安倍ということで反を頭につけることで有徴化されることになるが、それによって隠ぺいされることになるのが、親安倍のまずさや、首相のかかえる数々のまずさだろう。目を向けられなければならないのは、首相がこれまでになしてきたうみや汚れであり、その蓄積なのがある。そのうみや汚れの蓄積をどうしたら片づけられるのかを見なければならないのがあり、それを見ることを避けることになるのが、反安倍を有徴化して劣のものとすることなのではないだろうか。

 参照文献 『知の技法』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『語彙力を鍛える 量と質を高める訓練』石黒圭 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫