政治と宗教との関係のあり無しと、関係と個のあり無し―関係や交通はあるけど、個がない

 政治(政党)と宗教とが関係し合ってもよいのだろうか。交通し合ってもよいのだろうか。

 たしかに、信教の自由はあるから、その自由は良しとされることがいる。

 政党と韓国の新宗教(旧統一教会)との関係では、こうした点をあげられる。ひと口に宗教とはいっても、その質(内包)と量(外延)を見てみられる。価値と範ちゅう(集合)だ。

 政治と宗教があって、それらの関係がある。その関係のしかた、つまり交通のあり方がどうかを見てみられる。交通のあり方が悪い。よくない交通のあり方になっているのだ。

 国とひと口に言っても、よい国もあれば悪い国もある。人とひと口に言っても、よい人もいれば悪い人もいる。それと同じように、宗教といっても、よい宗教もあれば悪い宗教もあるだろう。

 悪い宗教は、カルト(cult)の新宗教をあげられる。信者をだまして、高いツボを買わせる。信者の心脳を操作する。原理主義におちいり、教条主義になる。こうしたものは悪い宗教だろう。

 日本では、宗教は税金を免除されて、無税になっているから、そこの悪さもある。特別あつかいにせずに、宗教からも税金をきちんととることがあってもよいものだろう。

 国は、宗教とは分けへだてられて、区別されるものなのかといえば、そうとは言えそうにない。非宗教なのが国なのではなくて、宗教性をもつ。国は宗教的なものである。そこに国がもつ危なさがある。

 政治と宗教との関係のあり方では、どういった交通だと悪いのかがある。悪い交通のあり方としては、関係が重みをもってしまうのがある。個が自立していない。関係に深く依存してしまう。

 個が自立している、個人主義による宗教であれば、まだ交通のあり方が悪くなりづらい。個があって、個どうしが関係し合う、といった交通のあり方による宗教であれば、まだ悪くなりづらい。個とほかの人や、個と神が交通し合う。個と神が契約を結ぶ。

 日本で、政治と宗教が関係し合うさいには、悪い交通のあり方になりがちだ。日本では集団主義が強いので、個が自立していない。関係がすごく重みをもってしまい、関係に依存してしまう。政と宗が悪い交通のあり方になりやすい。

 政と宗において、宗を対象化できていない。その宗がどのようなものなのかを見て行くには、宗を対象化しないとならない。政と宗とが関係し合っていて、それらが一体化してしまっているために、それぞれを切り離せなくなっている。悪だくみをし合う悪仲間のようなあいだがらになっている。

 政と宗のそれぞれを対象化できなくなっていて、一体化しているのは、個が自立していないからだろう。個が自立していないと、悪い交通のあり方になることが多い。

 政を対象化して、その政(政党、政治家)の悪さを見て行く。宗を対象化して、その宗教(新宗教)の悪さを見て行く。それらの作業をすることがいる。日本では、政と宗にかぎらず、いたるところで日本の国との一体化がおきていて、ものごとを対象化することができづらい。距離をとりづらい。全体責任は無責任(Everybody's business is nobody's business.)になることになる。無責任の体系だ。

 参照文献 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『心脳コントロール社会』小森陽一 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『民族という名の宗教 人をまとめる原理・排除する原理』なだいなだ