自民党だらけの日本の政治―自の字と、野党のあり方

 自民党だけがあればよい。第一と第二の自民党さえあればよい。そうしているのが、野党である日本維新の会だ。

 自由民主党の、加速の手助けをしたい。加速度を高めたい。野党の中にはそう言う党もある。国民民主党だ。

 速さでは、加速度と遅速度がある中で、加速度によりすぎているのが与党である自民党だ。自民党だけがあればよいのだとするのは、加速度が高まることにしかならないが、それでよいのだろうか。

 いさましいことを言うのが加速度だ。戦前の日本は、それによって戦争につっ走って行った。加速度は易しいが、遅速度はむずかしい。遅速度は抑制をかけて行くことであり、戦争であれば反戦をうったえることだ。抑制と均衡(checks and balances)は大事だけど、抑制がかかりづらいことが多い。

 西洋の哲学の弁証法(dialectic)では、正と反がある。これは、即自と対自だ。

 党の名前である自民党の自は自由の自だが、これを即自と対自に当てはめてみたい。

 第一自民党は、即自だ。そのままのの意味なのが即自である。

 第二自民党である維新の会は、対自だとは言えそうにない。それに対抗するの意味なのが対自だ。

 そのままでよいのか、それともそれに対抗するのかがある。その二つをしっかりと分けるようにしたい。分けないであいまいにしているのが第二自民党である維新の会だ。あやふやだ。

 そのままなのはよいけど、それに対抗するのはよくない。そうしているのが第二自民党である維新の会だ。

 たとえどういったものであったとしても、そのままでよいとはなりづらい。それに対抗するものが出てくる。即自のままではいられづらく、対自がおきてくる。

 第一自民党に対抗するものなのが第二自民党である維新の会なのだとは言えそうにない。第一自民党に対抗するのを(肯定するのではなくて)否定しているのが第二自民党である維新の会だ。

 与党があって、それに対抗するものなのが野党だ。与党だけではなくて野党があることがよしとされていれば、即自と対自が共にある。その二つが共にあるのがのぞましい。即自だけしかなくて、対自が許されないのは、健全ではない。

 自の字が自民党を表すものであるとして、即自(自民党のまま)でよいのかといえば、そうとは言いきれそうにない。対自(自民党に対する、対抗する)があったほうがよい。対自がいるのがあり、その必要さの度合いがどんどん高まっている。それがいまの日本だろう。かつてよりも、対自がますますいる。

 自に対してどうなのかといえば、即自であるよりも、対自であることがいるのが野党だろう。即自であるのであれば、自のままでよいとなり、自民党のままでよいのだとなる。そのままでよい。

 自のままではよくないのだとするようにして、自民党のままではよくないのだとする。対自のあり方にするようにして、それに対抗するようにして行く。そういうふうにして行かないと、日本のあり方が改まって行きづらい。

 すごい自をよしとしすぎていて、自民党をもち上げすぎている。即自によりすぎていて、対自がない。自つまり自民党に、対するのが無い。もっと対抗するようにすることがいるのが日本の政治にはあり、自つまり自民党にあらがって行く。

 どれだけ自つまり自民党にあらがって行き、対自になることができるかどうかが、野党の値うちを決める。第二自民党は即自の野党であり、野党としての値うちはほぼ無い(ほぼゼロだ)。即自にたいして、即自であるのだと、意味がない。

 そのままの即自のあり方によっていたのが戦前の日本だ。対自がなかった。即自だけだと、いまでいえば自民党しかないあり方である。一元のあり方である。いまでいえば、自民党しかよしとされない。戦前はそうだったのがあるから、それを批判したい。

 戦後は一元のあり方ではないようにしなければならない。一つの考えや価値だけがあって、それが日本の全体をおおうのではないようにすることがいる。対自の野党があることがいる。即自の野党は、戦前の日本にもあったから、新しさが何もないし、古くさいし、大政翼賛(たいせいよくさん)になるだけだ。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『思考のレッスン』丸谷才一 『離脱願望 唯物論で読むオウムの物語』亀山純生(すみお)、中西新太郎、後藤道夫他