(新)宗教と、信じる自由―自由のとらえづらさ

 宗教を信じる自由があることがいる。

 信教の自由があるのだから、どんな(新)宗教をよしとしようとも、その人の自由だ。テレビ番組ではそう言われていた。

 信じる自由があるからといって、(新)宗教がなしている悪さが見逃されてもよいのだろうか。信者に害や損を与えることが、なされてもよいのだろうか。

 自由は、あいまいさや多義性がある。修辞学でいわれる、多義またはあいまいさの虚偽におちいりやすい。

 自由は定義づけがしづらい。学者のフリードリヒ・ハイエク氏は、自由の定めづらさを説いている。あくまでも、強制がないのが自由なのだとしか言えない。何々が無いといった消極の形でしか定めづらいものである。

 信じる自由においては、自律性(autonomy)と他律性(heteronomy)や、自由主義(liberalism)の点から見てみたい。

 自律性では、自由と平等と連帯(友愛、兄弟性)がある。韓国の新宗教(旧統一教会)を信じるのは、自律性であるよりも、他律性に当たるものだろう。

 他律性では、超越の他者(hetero)によって動かされる。超越の他者に当たるのが、教祖だ。宗教の集団の、上の地位の人が、下の地位の信者たちを動かして行く。上が、下を動かす。下の信者たちは、ただ上に従っていさえすればよいのだとされる。上にさからうことは許されない。そこには自由はない。

 これをやれ、あれをやれ、と上が下に命じる。下はそれに従って動く。韓国の新宗教では、そうしたあり方がとられていそうだ。そこには個人の自己決定の権利(personal autonomy)があるのだとはいえそうにない。

 信者たちは、上にとっての道具や手段としてあつかわれる。信者たちが、(その人そのものが)目的としてはあつかわれない。その人そのものを(何かの道具や手段としてではなくて)目的としてあつかうのは、人格主義(personalism)だ。

 その(新)宗教が、まっとうな集団といえるためには、ほかの外のものとのかね合いがいる。自由主義においては、自由があるためには、国、小集団(共同体)、市場の三つがつり合いをとり、お互いに監視し合うことがいる。

 いまの日本を見てみると、自由主義が損なわれてしまっている。国は、国家主義全体主義になっている。きびしく見れば、国はそうなっている。市場は、資本主義によって、格差がおきつづけている。新自由主義(neoliberalism)であるためだ。

 小集団はどうかといえば、日本では、家族が父権主義(paternalism)のあり方になっている。男性が優で女性が劣のあり方だ。家族のあり方に見られるように、日本では集団主義が強いのがある。

 自由主義が損なわれてしまっているために、専制がおきているのがいまの日本だろう。たとえ信教の自由がよしとされるのだとしても(それがあるからといって)、それよりも、自由を損なう動きのほうがうんと強い。自由をよしとしているようであっても、それは部分(局所)のものにすぎず、じっさいには、自由を否定する動きのほうがずっと強い。

 たとえ信じる自由がよしとされていても、その小集団が、自由を否定していることがある。国が自由を否定する。小集団が自由を否定する。経済では、自由だとはいっても、新自由主義における自由にすぎず、自己責任論がとられる。個人に責任が押しつけられてしまう。

 自由をとり上げるのであれば、信教の自由をとり上げて、それだけでこと足れりとはできづらい。信教の自由は大事なものではあるけど、それをとり上げるだけであれば、かなり不十分だ。

 自由を見て行くさいには、どういったものが役に立つのかといえば、それはいまの日本の憲法である。自由、つまり憲法(近代の立憲主義憲法)、と言っても言いすぎではない。

 自由民主党や、韓国の新宗教は、憲法の改正を強く目ざしている。それが何を意味するのかといえば、自民党や韓国の新宗教は、自由を否定しているのである。自由を否定しているのがあるから、信教の自由だけをよしとしても、意味はほとんどない。

 自由をよしとして、憲法を守る。それが大切なことだろう。自由の点でも(自由の点でこそ)、憲法は役に立つものなのがあり、ものさしとして使うことができる。ものさしとして使ってみると、自民党や韓国の新宗教は、憲法を否定していて、改正を強く目ざしているから、憲法とは合わない。憲法とは合わないのであれば、変な特殊な(普遍ではない)まちがった価値をよしとしてしまっているのをうたがえる。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫憲法という希望』木村草太(そうた) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信 『「自由」の危機 息苦しさの正体』藤原辰史(ふじはらたつし)他