悪い宗教と、その関係者(当事者)―当事者の主権の尊重

 韓国の新宗教(旧統一教会)を、解散させる。新宗教から被害を受けた信者(被害者)を救う法を作る。それをなすことが探られている。

 新宗教を解散させたり、被害者を救う法を作ったりするさいに、どういったことが大事になってくるだろうか。

 大事にするべきなのは、当事者の主権(individual autonomy)だろう。当事者を重んじて行く。

 一つの分け方としては、当事者か、それとも第三者や局外者かがある。第三者や局外者を主にするのではなくて、(被害を受けた)当事者を主にするようにしたい。

 当事者をさしおいて、第三者や局外者が大きい顔をしてしゃしゃり出てしまうと、かんじんな当事者の声がかき消されてしまう。声が大きいだけの第三者や局外者の声がまかり通ってしまいかねない。

 そのことについての専門を持つといえるのが当事者だから、それをさしおいて、専門の外といえる第三者や局外者を主にしてしまうと、とんちんかんなことになりかねない。そのことにいちばん近いのが当事者だから、そこの専門性を重く見るようにしたい。

 ほかのちがう分け方としては、どういう枠組み(framework)を持っているのかがある。たとえ当事者とはいっても、その中でそれぞれがちがう枠組みを持っていることがある。

 ある当事者は、新宗教からすごい大きい損や害を受けて、すごい苦しみを負っていることがある。新宗教を解散させたり、補償を受けたりすることをのぞむ。

 ちがう当事者もまたいて、その人は新宗教にとくにきびしい見かたを取っているのではないかもしれない。それなりに満足していて、とくに不満はない。

 おなじ当事者であったとしても、それぞれがちがう枠組みを持っていることがある。ことわざでいう十人十色だ。その中で、どの枠組みにとくに目を向けるべきなのかといえば、新宗教から損や害を受けて、すごい苦しみを負っている当事者の枠組みに着目するべきだろう。そこをとり落としてしまうと、苦しんでいる人が救われなくなってしまう。

 たとえ自分が当事者ではなくても、当事者がもつ枠組みを共有することはできるのがある。枠組みの交通で、双方向の双交通になっているものだ。同じ枠組みをもち合える。

 当事者と枠組みを共有して、被害を受けた人を救う活動をしている弁護士の人や記者の人なんかがいる。そうした弁護士や記者は、代理や表象(representation)ではあるけど、枠組みを共有しているのがあるから、当事者の目線に立っている。当事者を重んじることにつながるものだ。

 当事者がもっている主権(権利)がしんがいされないようにして、当事者が軽んじられないようにして行きたい。第三者や局外者を主にしてしまうのではなくて、当事者が主になるようにして、そこの枠組みがどうかを見て行く。ちゃんと当事者の枠組みに目を向けるようにして、そこの声をしっかりと受けとめるようにして行く。

 たんに声が大きいだけで、それについてはしろうとや専門外(門外漢)である第三者や局外者を重んじてしまうと、とんちんかんなことになりかねないから、それに気をつけたい。

 かんじんな当事者がいて、それがもつ枠組みがあるから、その枠組みを大切にするようにしたい。専門性をもつ当事者による枠組みだ。それを大切にするようにして、そのうえで、それとはちがう色々な枠組みも見て行くのはありだろう。

 いきなり、かんじんなのとはちがう枠組みによるのだと、かんじんな枠組みを軽んじることになるから、それだとまずいことになることがある。押さえるべき枠組みをきちんと押さえないことになってしまう。

 参照文献 『当事者主権』中西正司(しょうじ) 上野千鶴子 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫