政党と宗教との交通と、社会の問題―社会の問題の、(問題の解決にいたるまでの)段階の進みぐあい

 韓国の新宗教(旧統一教会)と、政党とが関係し合う。交通し合う。それの何が問題なのかがわからない。与党である自由民主党の政治家は、そう言っていた。

 自民党の政治家が言うように、政党と、新宗教とが関係し合うことは、まったく何の問題もないものなのだろうか。政と宗とが交通し合うことは、少しの問題もないことなのだろうか。

 たしかに、自民党の政治家が言うように、政党と宗教との関係は、だれがどう見ても問題があることなのではないかもしれない。ウェブの右派の人たち(ネット右翼)は、韓国の新宗教のことを良しとしていて、否定していない。自民党と韓国の新宗教とのつながりを、あまり問題だとはしていない。

 客観で本質による問題だとまでは言えないのが、自民党と、韓国の新宗教との関係だろう。

 構築主義(constructionism)で見てみると、政と宗との関係は、社会の問題の一つであることになる。

 いくつかの段階で見てみると、安倍晋三元首相が殺される前の、生きていたときには、一部の人が、政と宗との関係を問題だと見なしていた。韓国の新宗教のことを追及していた。それを批判していた。

 事件そのものは、あるべきことではなかったが、安倍元首相が殺されたことによって、段階が前に進むことになった。事件がおきる前までは、そこまで段階が前に進まず、人々の関心があまり向いていなかった。報道でとり上げられることがほぼなかった。

 事件がおきたあとになって、段階が前に進むようになって、社会の問題であることがより認識されるようになった。人々の関心がより向くようになり、報道でとり上げられることがおき出した。

 社会の問題として見ると、事件がおきる前から、政と宗とのゆ着はずっとあった。韓国の新宗教による悪い行動が行なわれつづけていた。問題はずっとあったけど、そこに関心が向けられることが少なかったので、段階が前に進みづらかった。はじめの段階にとどまりつづけていたのである。

 きゅうに問題がおき出したのではなくて、政と宗の問題や、新宗教そのものの問題は以前からありつづけていて、その問題を発見して、問題があるぞと言っていた人たちはいた。政と宗や、新宗教に、強く関心を持ちつづけていた人たちは、事件がおきる前からいたのである。

 いろいろな問題には構築性があるから、そこに多くの人々の関心が向かわないと、なかなか問題であるとは見なされづらい。社会の問題には、そのやっかいさがある。段階がなかなか前に進んでいなかったのが、事件がおきたことによって、少しは前に進むようになった。まだ問題の解決には遠いだろうけど、少しは段階が前進したのがある。

 自民党の政治家が言うように、政と宗の交通や、新宗教そのものについて、何の問題もないと見なす人もいるだろう。色々な見なし方ができるのがあるけど、いろいろな意見が言われたほうがよい。自由に色々な意見が言えるようであったほうがよいのがある。

 いったん具体のものである、自民党や、韓国の新宗教から少し離れて、一般論で見ることがいる。一般論として見て、政党が、カルト(cult)の新宗教と関係し合うのはよいことなのかどうかや、政と宗(教)とが分離していないのはよいあり方だと言えるのかどうかなどを見て行くようにしたい。

 かりに、自民党でなかったとしてとか、韓国の新宗教でなかったとして、としてみて、それらでなかったとしても、政と宗が関係し合うのは、何の問題もないことだと言えるのかを見て行く。自民党ではないどこかの政党が、韓国の新宗教と関係し合っていたり、カルトの新宗教と関係し合っていたりしたとしたら、何の問題もないと言えるのだろうか。そうしたように、自由主義(liberalism)による、視点の反転の可能性の試しをしてみることがいる。

 参照文献 『社会問題とは何か なぜ、どのように生じ、なくなるのか?』ジョエル・ベスト 赤川学監訳 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)