政党と、新宗教(旧統一教会)とが関係し合う。交通し合う。その悪さはいったい何だろうか。
与党である自由民主党が、韓国の新宗教と関係し合っている。交通し合っているけど、その交通のあり方を見てみたい。
交通のあり方では、大きくは二つのあり方があり、協調と対立だ。協調は、同調である。対立は、批判をすることだ。
改めて見てみると、自民党が、韓国の新宗教と関係し合うのは、おかしいところがある。おかしさがあるのは、自民党が、韓国の新宗教を、もろ手をあげてよしとしている点だ。協調してしまっているのをあらわす。
自民党と新宗教とが協調し合う。その交通のあり方は、新宗教にたいして、何の文句もないものだ。協調だけによっていて、対立がない。対立がないのであれば、そのあいだには政治はない。
韓国の新宗教に、協調しているだけなのであれば、何の意見も持っていないことをあらわす。自民党は、韓国の新宗教にたいして、自分たちはこうだといったような、自分たちの意見を何も持っていない。
政党と、新宗教とで、考えがぴったりといってよいくらいに合っている。新宗教とはちがい、自分たちはこう考えているのだといったような、自分たちによる独自の考えがないのが、自民党だろう。
自分たちの意見が少しもない。韓国の新宗教に協調するだけで、対立することが少しもない。そのあり方は、政党としてまっとうなあり方だと言えるかと言えば、そうは言えそうにない。健全ではないあり方だろう。
政党が自分たちの意見をもつためには、新宗教に協調するだけではなくて、対立することがなければならない。意識して(多少なりとも)対立するようにしなければ、自分たちの意見を作れない。
新宗教にたいしてだけではなくて、日本は、アメリカにたいしても、協調するだけで、対立がない。日本は自分たちの意見を持っていない。アメリカとはちがうような、自分たちなりの独自の意見を作ろうとしていない。
変なあり方になっているのが自民党であり、その変さとは、韓国の新宗教を、もろ手をあげてよしとしている点だ。協調しているだけだから、そこが変に映る。対立するようにしなければ、自分たちの意見を作れないのだから、対立や批判があったほうがのぞましい。
韓国の新宗教にたいして、対立するところがあったり、批判するところがあったりしなければ、おかしい。対立するところが出てきたり、批判するところが出てきたりするのでないと、つき合い方として、いびつさがある。
自民党の政治家が、韓国の新宗教の会に、のこのこと出かけて行く。会に出かけていって、そこで、新宗教のことをべたぼめする。よいしょする。もち上げる。教祖をたてまつる。会に出て、新宗教をほめるだけであれば、自民党の政治家は、自分の意見を持っていない。対立してこそ、または批判してこそ、自分の意見をもつことができるし、政治をやることになる。
参照文献 『知の技法』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也 『国体論 菊と星条旗』白井聡(さとし)