ロシアとウクライナの戦争と、国どうしのあいだの問題―国家間の問題の解決にいること

 ロシアが引きおこした戦争では、多くのウクライナの人たちが殺されている。

 戦争がおきている中で、たくさんのウクライナの人たちが殺されているのをどのように見なせるだろうか。

 いろいろな問題が戦争の中でおきているけど、そこでいるのは、ロシアが知の誠実さをもつことだ。

 不誠実や不実におちいっているのがロシアだろう。ほんとうの意味で国が誠実になることはなかなかむずかしい。国はすぐに堕落しやすいから、難しさはあるのにしても、とくにひどいありさまになっているのがロシアだろう。

 知の誠実さをもつようにして、事実を認めて行く。事実を重んじる原則をもつ。ロシアにはそれが求められている。

 戦争にまつわるいろいろな問題を片づけて行くためには、知として誠実でなければならないのがあり、事実を重んじて行かなければならない。

 国どうしのもめごとでは、歴史にまつわることがある。ロシアとウクライナはいま戦争をやっているけど、かつての歴史のことでもめ合っているのが日本と韓国だ。

 日本と韓国とのもめ合いでは、いまのロシアと同じように、日本には知の誠実さが欠けている。日本は事実を重んじて行こうとしていなくて、事実をないがしろにしている。

 知として誠実ではなくて、事実をないがしろにしているのが日本だ。悪いあり方なのが日本であり、それによって日本と韓国とのあいだの歴史のもめ合いが片づかないで長引いてしまっている。日本の悪いあり方がわざわいしているのだ。

 韓国が悪いとしているのが日本であり、韓国が歴史をねじ曲げているのだとしている。日本が主体であり、韓国が客体だとされて、客体に当たる韓国が悪いのだとしている。主体である日本はまったく悪くなくて、客体である韓国だけが悪い。

 主体である日本はまったく悪くはないとするのは、主体である日本に誠実さが欠けているあり方だ。もっと主体である日本が、すすんで悪さを引き受けて行かないとならない。悪さを客体である韓国に押しつけてすませているようでは、もめ合いは片づかないで長引きつづける。

 主体は悪くはなくて、客体だけが悪いとする図式は、ロシアとウクライナにおいても同じように当てはまるものだろう。主体であるロシアは悪くはなくて、客体であるウクライナだけが悪いとしているのがロシアだろう。

 主体であるロシアに欠けているのが知の誠実さであり、事実をないがしろにしている。客体に悪さをぜんぶ押しつけるのではなくて、主体であるロシアが悪さを引き受けて行かないとならない。

 どういうふうにすれば、国どうしのもめ合いが片づきやすいのかといえば、決疑論(casuistry)によるようにするのがいる。決疑論によるようにできれば、国に教養があることになる。

 日本と韓国でいえば、日本は事実を重んじるようにして、日本が悪かったところはどんどん認めて行く。主体である日本が、かつての日本の悪かったところをどんどん引き受けて行く。

 悪さをぜんぶ客体に押しつけてしまうと、決疑論によることにはならない。いかに主体である日本やロシアが、悪さを引き受けることができるのかがかぎである。主体である日本やロシアが、知の誠実さをもつようにして、事実を重んじるようにしなければ、国どうしのもめ合いは片づいて行かないだろう。国どうしの問題が片づかずに長引くことになる。

 参照文献 『考える技術』大前研一 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉