日本の防衛費を上げるのはよいことなのか―軍事と非軍事のどちらの手段がより有益か

 日本の国の防衛費を上げて行く。そうするべきなのだと元首相は言っていた。

 国内総生産(GDP)の二パーセントを防衛費に当てるようにする。そうすることがいると言う。

 防衛費を日本はどんどん高めるべきだとするのは、与党である自由民主党安倍晋三元首相だ。安倍元首相がいうように、日本は防衛費を上げて行くべきなのだろうか。

 目的と手段の組みによって見て行くようにしたい。どういった目的のために、どういった手段をとるのかがある。

 防衛費を上げることが、自己目的化してしまう。手段と目的が転倒してしまう。そういったことになるとまずい。手段が絶対化されることになる。

 目的と手段は、それぞれが絶対のものではなくて相対性によるものだ。防衛費を高めて、軍事を強めることをおし進めるのが目的とされるのだとしても、それが絶対化されるのはよくない。

 日本の国が戦争をやらないようにして、平和であるようにするには、どういった手段をとるべきだろうか。とるべき手段としては、対話をなして行くのがある。外交の努力をして行く。

 思想家のヴァルター・ベンヤミン氏は、純粋な手段として、対話をなすことを言っている。国どうしであれば、自国と他国がたがいに対話をして行くのは、純粋な手段を行なうことだ。

 目的とともに、手段もまた絶対化されないようにすることがいるが、その中で、純粋な手段である対話をなして行くことがあるとよい。手段の絶対化は避けることがいるが、その中でのぞましい手段をなして行くことがいり、純粋な手段である対話をどんどんやって行くのがよい。

 日本の国を守るためには、防衛費を高めるのは手段としてはあげられるものだろう。そのさいには、日本の国を守ることを目的にするのだとしても、その目的が絶対化されないようにしないとならない。ほかにもいろいろな大事な目的があるから、いろいろな目的をとり上げて行くことがいる。

 目的にたいする手段のふさわしさでは、防衛費を高めれば日本の国が安全になるのかといえば、それはいささか疑わしい。防衛費を高めて軍事に力を入れるのは、アメリカなどにある軍需産業を富ませることにしかなりづらい。

 手段として、防衛費を高めるのが探られるのだとしても、それがもつ正の順機能(function)だけではなくて、負の逆機能(dysfunction)も見るべきだ。

 あたかも正の順機能だけをもつのが、防衛費を高めることなのだとするのはおかしいことだろう。負の逆機能もまたあるのだから、そこを言わなければならない。負の逆機能としては、軍事に使うお金は死んだお金なのがあるし、人を殺すためのお金なのがある。税金が人を生かすために有効に使われるとは言いがたい。

 軍需の産業をよろこばせることになるのが、防衛費を上げることだ。その手段をとるのを避けて、対話や議論をやって行く。対話や議論の手段をしっかりと日本の国はやって行けているのかといえば、それができていない。

 手段どうしを比べてみると、対話や議論の手段がきちんとできていない中で、防衛費を上げる手段だけをとっても、意味はないだろう。とるべき手段をはきちがえている。

 ただお金をかければよいだけだから、防衛費を上げる手段はたやすい。それよりもむずかしいのが、対話や議論の手段に力を入れて行くことだ。どの手段がよりできていないのかといえば、対話や議論が日本はできていない。日本は、ほかの国に比べても、対話や議論のところがかなり劣っていて、そこが弱い。

 どこを改善するべきなのかといえば、手段においては、防衛費を上げることであるよりも、対話や議論を何とかするべきだ。ただたんに、防衛費を上げるだけであれば、その手段はそうとうなばかやあほうにでもできる。

 戦前の日本の国はおろかだったために、軍事にお金をかけて、軍事に力を入れさえすれば国を守れるのだとしたけど、逆に国がほろんでいった。それとおなじ轍(てつ)をふまないためには、ちがう手段である、対話や議論をやって行き、そこに力を入れて行く。

 手段として、より知恵や知の力がいるものである、対話や議論をやって行くことが、いちばん日本にはいることだし、そこがいちばん欠けているのだと見なしたい。ただたんにお金をかけさえすればできるような、量によるだけのものである、防衛費を上げる手段によるのは、悪い言いかたではあるが、(戦前の日本のような)おろかな国がやることだと言えるから、のぞましい手段だとは言えそうにない。

 参照文献 『思考のレッスン』丸谷才一 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『正しく考えるために』岩崎武雄 『できる大人はこう考える』高瀬淳一