五輪と大義―大きい義と、小さい義の憲法や法の決まり

 大きい義と小さい義がある中で、五輪はそのどちらに当たるだろうか。五輪は大きい義になってしまっているのがある。

 大きい義には危なさがある。カルト宗教は大きい義をかかげてつっ走って行く。

 日本の戦前や戦時中は、国が大きい義をかかげて戦争につっ走っていった。戦争で国の内や外に大きな損や害をもたらした。さいごには敗戦することになった。

 大きい義になっているのが五輪だ。そのことを改めて見てみられるとすると、いったい何のために五輪をひらくのかが定かとは言えそうにない。何のために五輪をひらくのかが明確ではなくてぼんやりとしている。そこに五輪が大きい義になっていることがあらわれている。

 大きい義によるのではなくて、小さい義によってものごとをなして行く。それが政治では大切だ。小さい義は憲法や法律の決まりを守って行くことだ。近代の世俗の立憲主義による憲法を守って行く。近代の世俗の立憲主義憲法では、政治の権力に歯止めをかけて権力を分散させて抑制と均衡(checks and balances)をかける。小さい義である近代の立憲主義憲法や法律によってやっていったほうが安全性はやや高い。まちがった方向に向かって進んでいってしまうことを少しは防ぎやすい。

 与党である自由民主党はなにかと大きい義をかかげやすい。大きい義を好む。小さい義をないがしろにしがちだ。小さい義をないがしろにしていることを、大きい義をかかげることによってごまかしている。目をくらませるために大きい義を用いているのだ。

 自民党が好むものである大きい義をかかげるあり方とはちがい、小さい義をとるようにすることが政治では大切だ。どのようにするべきなのかを迷ったら、そこで大きい義をとってしまうのではなくて、小さい義によるようにすると安全性はやや高い。小さい義によるようにして、近代の立憲主義憲法や法律を守って行く。いたずらに大きい義をとってしまわないようにして行く。

 大きい義をとって小さい義をないがしろにするような自民党のやっているやり方だと、憲法や法律の決まりを破りやすい。憲法や法律などどうでもよいのだとなる。憲法を壊すことが大きい義になる。近代の立憲主義憲法を守るのは小さい義だが、そうした憲法をぶち壊すかたちでの憲法の改正をなそうとするのは大きい義だ。

 いっけんすると小さい義よりも大きい義のほうがより価値があるかのようではあるが、じっさいには大きい義よりも小さい義のほうが政治ではより重要だ。小さい義によって近代の立憲主義憲法や法律を守って行く。小さい義によることをすっ飛ばして、じかに大きい義によるのだと危険性が大きくなる。

 大きい義となっているのが五輪だとすると、いったん大きい義をカッコに入れる。科学のゆとりをもちながらいったんカッコに入れてみて、小さい義に立ち戻るようにする。近代の立憲主義憲法や法律を守るようにして行く。それが政治では大切なことだろう。

 いったん大きい義をカッコに入れてみることがいるのは、大きい義を追い求めすぎると、いったい何のためにそれをやっているのかがわからなくなってくるのがあるからだ。何のためなのかや誰のためなのかがよくわからないがとにかくやるのだといったことになりがちだ。目的と手段が転倒する。手段が自己目的化する。科学のゆとりを欠く。

 かつては日本の国によって戦争が大きい義だとされたが、それが国民にとってどのような現実の具体の益になるのかは明らかではなかった。大きい義をいったんカッコに入れることがなかったことによる大きな失敗だ。科学のゆとりを欠いていた。カッコに入れるべきものである大きい義のとりあつかい方を国がまちがえたのである。

 自民党は大きい義と小さい義のどちらのほうがより大事なのかがあべこべになってしまっているので、大きい義にすがることになっている。すがるもののうちの一つなのが五輪だ。科学のゆとりをもつようにして、大きい義はカッコに入れるようにしたい。小さい義をまずはより大事にしたほうが、あべこべさが少しは改まりやすい。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『論理的な思考法を身につける本 議論に負けない、騙されない!』伊藤芳朗(よしろう) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら)