五輪と日本の国の共通点―嘘やでたらめが多い

 東京都で夏に五輪がひらかれているさいちゅうである。その五輪と日本の国には共通点があるとするとそれはどういったものだろうか。

 五輪と日本の国との共通点は、嘘やでたらめが多いことだ。嘘やでたらめが多いところが似ている。

 嘘やでたらめが多いのが日本の国であり、それをあらわしているのが五輪だと見られる。日本の国の性格を映し出しているのが五輪である。日本の国の悪いところが五輪に反映されている。

 いろいろな不祥事が目だつのが五輪の関係者による組織や日本の国の政治だ。何のために五輪をやるのかにおいて、目的と手段が転倒している。手段が自己目的化している。

 平和のためにとか、人類の団結をしめすためにとか、ウイルスにうち勝ったあかしとか、いろいろな目的が五輪ではいわれているのがあるが、目的をなすための手段はいろいろにある。そのなかで五輪をやらなければならない絶対の理由があるとは言えそうにない。いろいろにある手段のなかの一つにすぎないものであるのが五輪だが、それが目的になってしまっているのだ。そこからいろいろな不祥事がおきることになる。

 手段ではなくて目的になってしまっているのが五輪だが、それを絶対化することはできづらい。ほかにもいろいろに大事な目的があるから、それらを重んじることがいる。五輪を目的にしているのはもっぱら五輪の関係者や日本の政権だが、ほかに重要な目的が色々にあるのをとり落とすことになっている。五輪に目が行きすぎていて視野が狭窄しているのだ。

 いったい何のために五輪をひらくのかははっきりとはしていない。平和のためとか、人類の団結を示すためとか、ウイルスにうち勝ったあかしとしてとか、いろいろな五輪の目的が言われているが、それらの目的をなすためであれば、五輪ではなくてほかに色々な有効な手段がある。五輪には目的合理性が十分にあるとはいえず、それが欠けている。

 国際オリンピック委員会(IOC)は民主主義によるものではないし、日本の政治では民主主義が壊れているのがある。五輪には民主主義がしっかりとはたらいているとはいえないから、形式合理性が十分にあるとはいえず、それが欠けているのはいなめない。

 なにかの目的のためではなくて、五輪そのものに価値があるのかといえば、そうとは言えそうにない。五輪そのものに価値があるといえるためには、たとえば五輪に参加することそのものに価値があるのでないとならないが、そうはなっていない。順位をはげしく競うのが五輪であり、勝ちと負けや優と劣をつけてしまっている。

 五輪で運動の競技が行なわれるうえで、価値があるものとないものとを線引きしている。勝ちや優の価値を得ることを追い求めさせている。五輪が追い求めさせている価値は幻想のものだろう。価値がないとされる負けや劣がなければ、価値があるとされる勝ちや優はなりたたないから、価値がないとされるもののほうがより本質的である。

 人格主義(personalism)においては、個人を重んじるようにすることがいる。個人それそのものを目的にする。個人をなにかの道具や手段にはしないようにすることがいるが、五輪では個人をないがしろにしているところがある。個人よりも国への帰属(identity)を重んじてしまっているから、国家主義(nationalism)を強めてしまっている。国家の公が肥大化することに五輪は手を貸している。個人の私が十分に重んじられることにはつながりづらい。

 個人の私が十分に重んじられるようにするためには、適正なあり方であることがいる。適正なあり方にするとそうとうな労力や費用がかかってしまう。それだと五輪を行なうのが割りに合わない。割りに合うようにするには効率性を重んじることがいる。適正さよりも効率性を重んじることがとられる。そうしないと五輪の関係者が利益を得ることができづらい。

 もよおしのもつ性格として、五輪は国家への帰属を重んじてしまっているから、国家の公を強めることに加担している。政治の距離感がくるいやすくなり、国の政治の権力にまひさせられやすい。政治の距離感をとりづらくなる。国の政治の権力の思うつぼである。

 日本の国は近代の中性国家の原則がとられていない。その原則がやぶられることが多い。国は個人の内面に入りこんではならないが、日本の国は個人の内面にかんたんに入りこもうとする。国が決めた価値に個人を従わせようともくろむ。何がよくて何が正しいのかを国が決めて、それに個人を従わせて行く。自発の服従の主体を生産して行く。

 個人それそのものを目的とするのではなくて、個人を道具や手段にしてしまっているところが五輪にはあり、人格主義がとられているとは言えそうにない。すべての個人の私を平等に重んじるものではない。

 個人主義であるよりも集団主義の色あいが強いのが五輪であり、個人よりも集団を重んじているのがある。集団はしばしば狂いや酔いにおちいりやすいのがあり、個人の私がそれに巻きこまれてしまう。集団の狂いや酔いをあと押ししてしまうところが五輪にはあり、平和の目的とは逆行するところがある。平和の目的をなすためであれば、集団の狂いや酔いを減らして行かないとならない。

 五輪と日本の国は、ともに嘘やでたらめが多く、空虚さや虚無におちいっている。いっけんすると五輪や日本の国は、表面においては充実していて盛り上がっているようではある。その表面の充実や盛り上がりにかくれた形で、うつろな響きがおきている。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が増えていることによって、うつろな響きがおきることになっている。うつろな響きがおきていることにしっかりと耳をすますことがいるだろう。表面の五輪の充実さや盛り上がりは、うつろな響きに耳をすますのではなくて、耳を閉ざすことになっている。がやがやとした表面のやかましさによって、うつろな響きがかき消されている。

 参照文献 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『正しく考えるために』岩崎武雄 『民族という名の宗教 人をまとめる原理・排除する原理』なだいなだ 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明