歴史は役に立たないから、軽んじたほうがよいのか―歴史を重んじるのはよくないことなのか

 歴史を重んじすぎるのはよくない。歴史の丸暗記よりも、もっと大切なことはほかに色々にある。脳科学者はツイッターのツイートでそう言っていた。

 歴史の過剰や歴史のおたくはよくない結果をもたらす。歴史を重んじすぎると、国の政治でも、学校の教育でもよくないことになる。国の政治では、国をまちがった方向に向かわせてしまう。学校の教育では、受験に受かるための暗記をするだけになる。

 歴史は、ひまがあるときに、数時間ほど通史を読めば、それですむ。そう脳科学者は言っていたけど、それだけでよいのだろうか。

 歴史を重んじるべきかそうではないようにするべきかは、いろいろにふ分けをして見てみられそうだ。脳科学者のツイートでは、いろいろなことがごちゃごちゃに混ざり合っているところがある。それらをふ分けをして見てみたい。

 歴史を重んじるべきなのかどうかは、一般論として言えることであるよりも、状況や条件によるのがある。状況や条件によっては、歴史を重んじることがいることがある。

 状況や条件についてを見てみると、歴史を重んじるのとは逆に、どういったときに歴史を軽んじることになるのかがある。歴史を軽んじるのは、たとえば、国にとって都合が悪い過去の負の歴史を忘れてしまいたい。負の歴史を消してしまいたい。歴史を修正したい。そういったときがある。

 日本の国の中央ではなくて、辺境をとり上げてみると、中央よりも辺境のほうが、歴史を重んじる動機づけ(motivation)が強い。日本の辺境は、これまでにいろいろな損や害を受けてきて、負担を背負っている。いまでも負担を背負わされつづけている。それゆえに、歴史を重んじることになっている。

 日本の中で中央にいれば、歴史を軽んじるのでもかまわないかもしれないけど、それとはちがって辺境にいれば、歴史を重んじざるをえない。状況や条件のちがいでは、もしも中央ではなくて辺境にいるのだとすれば、はたして歴史を軽んじることができるのかといえば、それができるのだとは言えそうにない。

 正しい歴史と正しくない歴史があるのだとして、正しい歴史を重んじるのならよいけど、正しくない歴史を重んじるのだとまずい。そのちがいがある。

 場合分けをして見てみられるとすると、正しい歴史と正しくない歴史があって、歴史を重んじるのと軽んじるのがある。正しい歴史を重んじるのはよいことだが、それを軽んじるのはよくない。正しくない歴史を重んじるのはよくないことであり、それを軽んじるのはよいことだ。

 ひと口に歴史といっても、それが正しい内容なのかそうではないのかがあるから、変な歴史に染まってしまうとまずい。そうかといって、なにが変な歴史なのかは、人それぞれによってちがってきてしまう。ある人にとっては変な歴史だと見なせても、ほかの人にとってはそれこそがまさしく正しい歴史なのだとなる。

 歴史が基礎づけできなくなっているのがあり、まさにこれこそが正しい歴史なのだといったようにはしたて上げづらい。まさにこれこそがまちがった歴史なのだといったようには基礎づけたりしたて上げたりできづらい。

 政治で歴史を重んじすぎると、国がまちがった方向に向かっていってしまう。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領がまさにそうなのだと脳科学者は例としていっていた。そこから、歴史を重んじるのや歴史のおたくはよくない結果をもたらすのだとしていた。

 原因と結果についてを見てみると、歴史を重んじるから、国の政治がまちがった方向に進んでいってしまうのだとは言えそうにない。国の政治がまちがった方向に進んでいってしまうのは、どちらかといえば、内容がまちがった歴史をよしとしていることによるだろう。

 原因として、歴史を重んじるのがあって、その結果として、悪い結果がおきるのだとは言えそうにない。結果として悪いことがおきるのだとすれば、その原因としては、悪い歴史をよしとしていたり、歴史のとらえ方がまちがっていたり、歴史を軽んじていたりするのだと言えそうだ。

 学校の教育では、歴史を重んじすぎるからいけないのではなくて、むしろ軽んじているからいけないのだと言える。受験に受かるために、たんに歴史を丸暗記するのがあるのだとしても、それそのものがいけないのではなくて、丸暗記したことをあとで忘れてしまうからいけない。

 丸暗記したことそのものは、それそのものはとくに害になることではない。たとえ丸暗記であったとしても、歴史の知識を知っていることそのものはよいことだろう。あとになってかんたんに忘れてしまうのだと、あまり意味がないのだとは言える。短期の記憶が、長期の記憶になって定着しないのだとあまり意味はない。

 日本の国のまずさとしては、歴史を軽んじる方針をとってしまっているのがある。その方針に乗っかってしまうのはまずい。歴史はどうでもよいものであり、重んじなくてもよいのだとするのは、日本の国の方針に乗っかってしまうことになり、それに加担してしまう。

 日本の国が、歴史を軽んじる方針をとっているのを批判して行く。それがいることだろう。歴史を軽んじている点については、それを批判して行くようにして、それに加えて、科学の思考法を身につけるようにもして行きたい。

 歴史の知識を身につけて行くのとはちがったことなのが、科学の思考法だ。科学の思考法では、国が上から押しつけてくることを、そのまま丸ごとうのみにしないようにする。国のあり方を批判して行く。権威化されたことを、そのまま丸ごとうのみにするのではなくて、いちおう疑ってみる。

 国の中央よりも、辺境のほうが、歴史の過剰や歴史のおたくになりやすい。どちらかといえばそう言えるのがある。歴史の過剰や歴史のおたくはだめだとして否定してしまうと、辺境を否定して、中央を持ち上げることになる。その逆に、辺境を重んじるようにして、中央を批判するべきだ。

 日本の国にとって都合が悪い過去の負の歴史は、毒つまり薬となるものだ。現代思想でいわれる薬と毒の転化(pharmakon)に当たるものだ。歴史をできるかぎり重んじて行くようにして、毒を薬に転化させて行く。

 日本の国は、国の方針として、じかに薬をとってしまっている。じかに薬をとってしまっているから、日本の国に都合がよいようなまちがった歴史によってしまっている。国家主義(nationalism)が強くなっている。薬をとっているつもりが、毒になっている。毒が回っていっている。

 国に毒が回っていっているのを改めて行く。そのためには、日本の国にとって都合が悪いような、毒となるような過去の歴史にきちんと向き合うようにするべきである。それで、毒を薬に転化させるようにして行きたい。

 原因と結果でいえば、歴史を重んじるから、いろいろと悪いことがおきるのではなくて、その逆なのがある。歴史を軽んじることが原因となって、いろいろに悪いことがおきていそうだ。欠けてしまっているのは、歴史を重んじるような後望(retrospective)だ。もっと後望をしっかりとやって行きたい。いまとかつてのあいだのいまかつて間の交通をしっかりとやって行く。

 歴史が過剰なのや歴史のおたくなのではなくて、前望(prospective)が過剰になりすぎている。そう見なしてみたい。むしろ、歴史は過小や過少になっていて、歴史の忘却が進んでいっている。歴史が無くなっていっていて、ものごとの厚みがなくなり、うすっぺらいぺらぺらなあり方になっている。冗長性(redundancy)がなくなっている。

 前を向きすぎてしまっているのがあり、それを改めて、うしろをしっかりとふり返って行きたい。前を向きすぎで、前望が過剰になっているから、いろいろなことが混迷していて、おかしくなっているのだと見なしたい。歴史については、それが欠如していっていて、風化がどんどん進んでいっているのがあり、そこに危なさがある。

 参照文献 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉現代思想を読む事典』今村仁司編 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『歴史という教養』片山杜秀(もりひで) 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『哲学塾 〈畳長さ〉が大切です』山内志朗(やまうちしろう)