五輪と緊急の事態―水と油の関係

 東京都で夏に五輪がひらかれている。そのなかで、すでに東京都と沖縄県には緊急事態宣言が出されている。そこにあらたに四つの府県が加わることになった。大阪府と埼玉県と神奈川県と千葉県である。

 そもそもの話として、なぜ緊急事態宣言が東京都に出されているさいちゅうなのにもかかわらず、五輪が東京都でひらかれているのだろうか。そこにおかしさがある気がしてならない。

 あらためて見てみると、緊急事態宣言が東京都に出されているのだから、緊急な事態になっているはずだ。緊急の事態になっているのにもかかわらず東京都では五輪がひらかれている。

 緊急の事態に東京都がなっているのにもかかわらず、なぜ東京都で五輪をひらくことを決めてしまったのだろうか。ほんらいであれば、緊急の事態であることがもっとも重んじられることがいり、そこからその中でどうするのかが探られることがいる。

 工事をするさいには安全第一が言われる。災害がおきて人を助けるさいには、まず助ける人の身の安全が第一にされる。安全をおろそかにしてでも工事をすることは行なわれないほうがよいことだ。助ける人の身をいちじるしく大きな危険にさらしてでも人を助けるのは新しい犠牲を生みかねない。安全性が確保できないのであれば、工事や人助けは行なわれないほうがよいことがある。それと同じように、緊急の事態になっている中で、危険性があるのであれば、五輪をひらかないようにするほうが正しかった見こみがある。

 五輪の利害関係者(stakeholder)とはいったいだれなのだろうか。それはおもに五輪の関係者や、五輪に出る選手や、日本の国民だろう。五輪の利害関係者は、テレビ番組でいえば、その出演者に当てはまる。テレビ番組をつくる上で大事にしなければならないのは、出演者の安全だろう。出演者の身を危険にさらしてまでもテレビ番組をつくるべきではないから、安全が第一であることがいる。安全が確保できないのであれば、テレビ番組でやろうとしているその危険な企画を中止するべきだろう。

 緊急の事態はそうとうに重いもののはずだが、それが軽んじられることによって、東京都で五輪がひらかれることになった。それが重んじられるのではなくて軽んじられることになったのは、緊急の事態の記号表現(signifier)の記号内容(signified)が広すぎるからかもしれない。記号表現の使われ方が広くされすぎている。

 意味論において、緊急の事態の記号がどのようなことをさすのかを見てみられるとすると、その質と量がある。質は重いものであるべきだが、それが軽いものを含んでしまう。重いものから軽いものまでをさす。そういうふうになっているので、緊急の事態の記号がはたして重いのか軽いのかがよくわからなくなっている。

 楽観から悲観までを含んでしまうために、たとえ緊急の事態だとされたとしても、その受けとり方がまちまちになる。緊急の事態はそれそのものはじかに手で触るなどによって触知できるものではないから、あいまいさをまぬがれない。きっちりと質を定めておくことがいる。

 きちんと質が定められていれば、緊急の事態なのだとしたら東京都で五輪はひらかれないものだろう。緊急の事態であれば五輪はひらかれることはないはずだが、それがひらかれてしまっている。そこからうかがえることは、緊急の事態がさししめすものの量が多すぎる。軽いものから重いものまでのいろいろな量をさししめせてしまう。記号がさし示せるものの範囲が広すぎる。もっとせばめることがいるが、それが行なわれていない。修辞学でいわれる多義またはあいまいさの虚偽におちいることになる。

 記号がさし示せる範囲が広くなりすぎていることによって、重いけど軽いとか、緊急だけど緊急ではないといったふうになる。五輪をひらくことには成功したのかもしれないが、記号を適した形で正しく使うことには失敗している。記号を適した形で正しく使うことを軽んじて、それを犠牲にすることによって、五輪がひらかれた。そう言うことができるかもしれない。

 参照文献 『記号論』吉田夏彦 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信 『語彙力を鍛える 量と質を高める訓練』石黒圭