ウクライナとロシアの戦争の、正義論―戦争をつづけるべきか、止めるべきか

 ウクライナとロシアの戦争は、このままつづけるべきなのだろうか。それとも止めて、休戦や停戦をするべきなのだろうか。

 ウクライナはけっして悪くはないのだから、ウクライナのためにも、このまま戦争をつづけて行く。ウクライナが戦争に勝つことがいる。そうしたことが言われているが、それとはちがう見なし方を、個人としてはよしとしてみたい。

 このまま戦争をやりつづけて行くべきではない。できるだけすぐに戦争を止めて、休戦や停戦するべきだ。そう見なしてみたい。

 戦争をやりつづけていって、ウクライナが勝つ。それがウクライナにとって良いことだ。そうした見なし方は、まったくまちがったものとは言えないものではあるだろう。それはそれで正しさがあるだろうけど、そこには欠点がある。その欠点を深刻なものだとしてみたい。

 どういう状態なのがいまのウクライナなのかといえば、戦争状態におちいっている。自然状態(natural state)だ。社会状態(civil state)になっていない。

 社会状態がなりたっていれば、とりあえずは命だけは助かる。すべての個人の命が保たれることが保障される。

 命が助かる保障がなくなっているのがいまのウクライナだろう。個人の命が失われることがおきていて、個人が犠牲になることがおきている。個人の命よりも、国のほうがより優先されてしまう。個人の私が押さえつけられて、国の公が肥大化する。

 どういう欠点が戦争状態にはあるのかといえば、主体どうしがずっと争い合うことになり、それが止まらない。まさに、いまのウクライナとロシアは、主体どうしの争い合いが止まる気配がない。止まる見こみが立っていない。戦争状態だとそうなってしまう。えんえんと争い合いつづける。

 理性による反省ができないのが、戦争状態だ。頭が熱くなっていて、のぼせているのがあり、自己欺まんの自尊心(vain glory)にかられてしまう。たとえウクライナは悪くはなくて、ロシアが悪いのだとしても、主体である以上は、ウクライナは自己欺まんの自尊心をもつ。自国への愛(愛国心)をもつ。心理としてそれを持ちつづけてしまう。

 世界には、権威がない。権威がない状態なのがいまの世界であり、主体どうしの争い合いがおきやすい。国どうしの争い合いがおきやすいありようになっている。もしも世界に権威があれば、(国の中と同じように)戦争状態から社会状態に移ることができて、主体どうしの争いがおきるのを未然に防ぎやすい。

 契約によって世界を支配するのだったら、世界において社会状態がなりたつ。世界においての権威を作り出せる。そういう契約が、国どうしではできていないから、世界は権威がないありようになっているのである。

 とりあえずウクライナとロシアが、(できるかぎりすぐに)戦争を止めるようにすれば、そこにおいて社会状態をなりたたせられる。国どうしで契約を結び合える。たしかなものではなくて、あくまでもとりあえずのものではあるだろうが、国どうしで契約を結び合って、戦争を止めるようにすることがなりたつ。

 たとえウクライナは悪くはないのだとしても、戦争をやると(つづけると)、そこに逆説がおきてしまう。戦争が負としてはたらく。戦争をやめて休戦や停戦をしたとしても、そこに逆説がおきてしまい、それが負として働くところがある。

 戦争をやりつづけても、それとも止めたとしても、どちらにしても逆説がおきてしまうのがあるけど、その中で、戦争を止めた方がよりましなのがある。これは諦観(ていかん)の平和主義だ。

 あきらめの平和主義がある。理想論による平和であるよりも、現実論による平和である。正しい戦争よりも、ごまかしの平和のほうがまだ(いくらか)ましだとするものだ。正義の戦争よりは、ぎまんの平和のほうが少しはましである。あきらめないで戦争をしつづけるよりも、あきらめて平和になったほうがどちらかといえば良い。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)