日本の芸能界の性の加害と、日本語と英語―英語の単語で見てみる

 性の加害がなされた。そのうたがいがあるのが日本の芸能界だ。

 男性が男性にたいして性の加害をなしたおそれがあるのが日本の芸能界だが、それについてを英語の単語(ごくかんたんな英語の単語)でとらえてみるとどういったことが見えてくるだろうか。

 it と you の英語の単語をもち出して、性の加害についてを見てみたい。

 心理学の精神分析学では、基本の衝動(しょうどう)を人はもつという。基本の衝動は it と言われる。英語では it であり、ラテン語では id(イド)だ。ドイツ語では es(エス)だ。

 it を抑えこんでいるのが自我(self)だ。上位の自我(super-self、超自我)もあり、いろいろな要求をつきつける役をになう。

 これをせよとかあれをせよとか、これをするなとかあれをするなといった、いろいろな要求をつきつける。それが上位の自我だ。社会における決まりを守らせる。

 基本の衝動である it だけによるのだと、とにかく欲望(欲求)を満たせさえすればそれでよいとなってしまう。日本の芸能界で性の加害がなされたことでは、基本の衝動である it が強すぎた。自我の力が弱くて、抑えこめなくて、それで性の加害がなされることになった。

 芸能とはちがうけど、日本の政治では、基本の衝動である it が強まっている。自我による抑えがきかなくなっている。it が強まることによって、政治において快か不快かといったごく単純な二元論がとられてしまう。快ならよくて不快なら悪いといった単純なものだ。大衆迎合主義(populism)や反知性主義である。不快さに耐える力が弱まっている。ゆとりや寛容さが失われている。

 性の加害をなしたとされる日本の芸能界の人がいる。芸能の事務所の代表だった。代表(男性)は、芸能においてすごい成功をなした。すぐれたアイドルたちを色々に世に出した。これは昇華(しょうか)である。

 欲求の置き換えなのが昇華だ。it をそのままにするのではなくて、それを別の形に変える。ちがう形にして、それで欲求を満たす。文化において成功をなすのは、生の形で性の欲求を満たすのではない。間接の形で性の欲求を満たす。it が生の形ではなくて、置きかえられて、芸能の世界で成功がなされたのである。

 国どうしが戦争をやり合う。ロシアとウクライナはいまそれをやり合っている。戦争はひさんなものだから、それをやる代わりに運動の競技なんかで争い合う。サッカーでは、国の代表どうしが争い合う。国際的な大会では国の代表どうしが戦い合うのがあり、これは戦争の代用であり昇華だ。

 日本語だと、私とあなたは必ずしも対等ではない。私とあなたの二つの語は、いっけんすると対等のようではあるけど、現実の具体の文脈に置かれることになる。

 私が上であなたが下だとか、私が下であなたが上だとか、そういった上と下の人間の関係によることになる。たがいの利害や打算がつきまとう。包括のあり方だ。

 東洋だと包括のあり方になりがちだけど、西洋なら分析のあり方によれる。西洋語のわたしである I とあなたである You は、対等なものだ。個である I と個である You はどちらが上でどちらが下といったものではないから、個としては互いに等しい。

 性の加害者が I だとして、性の被害者は You に当たる。西洋語においては I と You は互いに対等なのだから、I が上で You が下だといったことにはならない。日本語のばあい、性の加害者の地位がすごく高いと、性の被害者が排除されてしまう。被害者の声がないがしろにされてしまいかねない。

 東洋の包括のあり方だと、性の加害者の地位がすごく高いさいに、被害者が切り捨てられてしまう。日本語だとそうなってしまうことがある。西洋の分析のあり方であれば、I と You は対等だから、I をもってしてそれでこと足れりとはならず、I に対して You はどうなのかとしやすい。I はこうだけど、それに対して You はこうなのだとできやすい。

 自分と他者の二つがある中で、日本語では、自だけでこと足れりとなることがしばしばある。他者の排除だ。西洋語だったら、分析のあり方で、自と他の二つをくみ入れて行く。性の加害においては、自と他の二つを共にくみ入れることがいり、分析のあり方によることがいる。包括のあり方だと、自が上で他が下のさいに、(上である)自だけでよいとなって、他者の排除がおきがちだ。

 たとえ西洋のあり方であったとしても他者の排除がおきてしまう。西洋のあり方であれば他者の排除がおきないわけではない。主体である I は行動者であり、その相手なのが客体だ。主体が客体をとらえるさいに、主体が上で客体が下となる。客体が下のあつかいになり、他者が排除されてしまう。

 西洋中心主義があり、西洋が主で東洋が従となる。主体である西洋が、客体である東洋をとらえて行く。表象(representation)されるものなのが東洋だ。西洋に都合のよいように東洋を表象するものであり、あくまでも西洋がとらえたところのものとしての東洋であるのにすぎない。

 西洋中心主義への批判として、植民地主義後(postcolonialism)の動きがおきているのがある。同じことであったとしても、西洋ではなくて東洋から見たらちがう見え方になる。性だったら、男性によって歴史が作られているのを、女性の視点から歴史を見直すのなどがある。歴史のとらえ直し(語り直し)だ。

 参照文献 『精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『木を見る西洋人 森を見る東洋人―思考の違いはいかにして生まれるか』リチャード・E・ニスベット 村本由紀子訳 『日本語の外へ片岡義男ポストコロニアル 思考のフロンティア』小森陽一現代思想を読む事典』今村仁司