ロシアとウクライナの戦争と、ふつうの人たちが殺されること―国による人殺し

 ロシアの軍が、ウクライナのふつうの人たちを殺した。

 ウクライナの町では、ロシアの軍によって殺された人たちの遺体がたくさんあるという。

 戦争において、ロシアがウクライナの人たちを殺していることについてをどのように見なせるだろうか。

 われとなんじと、われとそれがある。学者のマルティン・ブーバー氏はそう言っている。

 ロシアの軍がウクライナのふつうの人たちを殺しているのは、われとなんじではなくて、われとそれとしていることによる。それに当たるのがウクライナの人たちであり、われであるロシアがそれにたいして排除の暴力を振るっているのだ。

 国家主義(nationalism)によっているのがロシアであり、そこから、われとそれのあり方をとることがおきている。われとそれとのあいだに線を引く。われではなくて、それに当たるものであれば、排除の暴力を振るってもよい。われではないのがそれだから、それに当たるものは排除してもかまわない。ロシアではそうしたあり方がとられている。

 われわれ(we)とかれら(they)のあいだに線が引かれるさいに、それらが互いに対等であれば、われとなんじになる。われわれとやつらというように、やつらを下のものとしてしまうと、われとそれになる。やつらはそれに当たるものであり、排除してもよいのだとなってしまう。

 われとそれにおいて、それに当たるものであったとしても、すべての人は基本の人権(fundamental human rights)をもつ。それに当たるからといって、基本の人権を持たないのではない。個人が基本の人権を持っていることを否定してしまうと、民主主義ではなくなってしまう。

 ロシアの軍がウクライナのふつうの人たちを殺しているのは、動物の生(zoe)まで否定しているものだ。動物の生が認められて、さらに政治の生(bios)が認められることが民主主義ではいるが、それらの二つともを否定することがロシアによって行なわれている。

 国家主義がとられているのがロシアであり、たとえロシアにおいて、われとそれのうちのわれに当たるのだとしても、動物の生しか認められない。ロシアの国民は、われとそれのうちで、われに当たるのだとしても、政治の生を十分に認められないで、動物の生しか許されない。

 政治の生では、国民が自己統治と自己実現をなして行く。国民が政治にかかわる権利を持つことがいるけど、ロシアではそれが十分に認められていない。国民が国のやることにさからうことが許されない。国民は国のやることに従わせられて、動物の生しか認められない。

 われとなんじではなくて、われとそれのあり方によるのだと、それに当たるものを排除してしまう。それに当たるものの、動物の生を否定する。われに当たるのだとしても、政治の生が認められない。われとそれとの、どちらにも悪くはたらく。負の相互作用がおきる。

 国どうしを見てみると、ロシアとウクライナは、たがいにわれとなんじのあり方であることがいるけど、われとそれのあり方になっている。ロシアがわれで、ウクライナがそれに当たるものにされている。それに当たるのがウクライナなのだから、それを排除してもよい。ロシアはそうしていて、ウクライナを排除している。

 対等なのがいるのが国どうしの関係だから、ロシアとウクライナは、われとなんじのあり方であることがいる。われつまり自国と、なんじつまり他国であることがいる。そうではなくて、われつまり自国とそれつまり他国になってしまっているから、戦争がおきている。

 われとそれになり、戦争になってしまっているのは、おもにロシアが国家主義によっていることがわざわいしている。国家主義だと、われとそれのあり方によってしまう。われとそれとのあいだに線を引こうとする。それに当たるものは排除してもよいものなのだと見なす。それに当たるものは、可傷性やぜい弱性(vulnerability)をもち、悪玉化(scapegoat)されやすい。そこに危なさがある。

 参照文献 「ナショナリズムカニバリズム」(「現代思想」一九九一年二月号)今村仁司 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『まっとう勝負!』橋下徹