ロシアとウクライナの戦争と、だれが困っているのか―だれが苦しんでいるのか

 ウクライナの人たちを救う。それは一体どういうことなのだろうか。

 ウクライナだけではなくて、世界には、ほかの国に困っている人たちがたくさんいる。ウクライナではない、ほかの国の人たちはどうでもよいのだろうか。ウクライナの人たちだけを重んじればよいのだろうか。ウクライナの人たちだけに目を向ければよいのだろうか。

 たしかに、いまロシアによって戦争をおこされているのがウクライナだから、ウクライナの人たちを救うことはいる。そのさい、ウクライナの人たちだけを重んじてしまうと、普遍化できない差別がおきるところがある。ウクライナだけではなくて、ほかの国にも困っている人たちはいっぱいいるからだ。

 ウクライナの人たちを見てみると、その質(内包)と量(外延)がある。体系(system)として見てみると、だれがウクライナ人に当たり、だれがそれに当たらないのかは、必ずしもはっきりとはしない。そこで、ウクライナ人のようなものとすることで、その範囲を広げて行きたい。類似性でもあり差異性でもあるといった、家族の類似性である。

 いま戦争を引きおこしているのがロシアだけど、ロシア人の体系を見てみると、その体系に属している人の中で、苦しんでいる人もいるだろう。ロシア人の体系に属しているからといって、その中で苦しんでいる人が放っておかれればよいとはいえない。救われることがいるものだろう。

 だれがロシア人に当てはまるのかは、その質と量があるけど、その中には、日本にいるロシア人がいる。日本にいるロシア人で、いわれなき差別によって苦しんでいる人がいそうだ。独断と偏見によって、悪い人間だと見なされてしまう。型(stereotype)を当てはめられてしまう。ロシア人であるからといっても、その中にはよい人も少なからずいるものだろう。

 ロシア人の体系に属する人は、ウクライナ人ではないけど、そうであるからといって、苦しんでいないとはかぎらない。救われることがいらないとはいえそうにない。ロシア人の体系に属する人で、ひどければ、声をあげられない人もいるだろう。沈黙を強いられる人も中にはいるだろう。

 国への帰属(membership)は、あるところに属していれば、ほかのところには属せない。排他のところがあり、二重や多重に属しづらい。日本人であれば、日本人の体系に属することで、自己同一性(identity)がおきてしまう。個人がもつ個性や人格(personality)が否定されやすい。

 ロシア人の体系に属している個人は、救われなくてもよいのだろうか。そうとは言えそうにない。個人がどこの体系に属しているかによって、救われたり救われなかったりするのではないようにしたい。救いがいる個人がいるのであれば、たとえどの体系に属していようとも、みな同じように救われるようであるのがのぞましい。

 いまはロシアに戦争をおこされているから、ウクライナ人が救われることはいるけど、そのいっぽうで、自然主義の誤びゅうには気をつけたい。ウクライナ人の体系に属していることは、何々であるの事実(is)に当たることだけど、そこから、何々であるべきの価値(ought)を導いてしまうと、事実から価値を導いてしまっている。よくないことになる。

 ロシア人の体系に属している人は、そうである事実によって、差別されてもよいとする価値を導けるのかといえば、それは導けないのがある。事実から価値を導くのはよくないことだから、個人がどこの体系に属しているかの事実から、その個人が救われるべきかどうかの価値を導かないようにしたい。

 どの体系に属しているのかの事実から、価値を導くのではなくて、体系のところをあいまい化したい。ウクライナ人であれば、その体系をあいまい化して、ウクライナ人のようなものとして、その範囲を広げて行く。もともと何々人の体系はあいまいなものだから、あいまい化したほうがより現実に近づく。

 救われるべき個人は、ウクライナ人に限らないのだから、ウクライナ人が救われるべきであるにしても、それは全体集合のうちの部分集合にとどまる。部分集合ではなくて、全体集合を見るようにして、(ウクライナ人を含めた)救われるべき個人の全体を見て行きたい。部分だけを見ていると、もれや抜かりがたくさんおきてしまう。部分だけではなくて、全体の体系を見て行かないとならない。

 参照文献 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』森博嗣(ひろし) 抜粋