ロシアとウクライナの戦争と、戦争の勝ちと負け―ロシアは戦争に勝てるのか

 戦争で、ロシアは何とかして勝とうとしている。

 かつての戦争で、ロシアはドイツ(ナチス・ドイツ)に勝ったのがあり、勝ったのを祝う日が五月九日なのだという。

 いまロシアがウクライナにたいしてやっている戦争で、ロシアはなんとか五月九日までに、ロシアが勝ったことにしたい。ロシアはそれでやっきになっている。

 五月九日までに、ロシアは戦争で勝ちをおさめられるのだろうか。ロシアは戦争で勝ったことになるのだろうか。

 戦争で負けることでは、ことわざでいう負けるが勝ち(stoop to conquer)のところがないではない。戦争でドイツはロシアに負けたが、ドイツは負けることによって国が発展した。いまではドイツは経済などで大きな力をもつ国になっている。

 勝つか負けるかはともかくとして、戦争があることによって、国のあり方が変わるきっかけになる。戦争で負けはしたけど、ドイツは戦争をやったことで、国のあり方が変わることになった。

 歴史学者E・H・カー氏は戦争は革命のはたらきをもつと言っている。戦争革命説だ。たとえば、日本なんかでは、(近代のあとで)民主主義がおきたのは、いずれも戦争のあとである。民主主義つまり戦後の民主主義だ。戦争が革命のはたらきをもっているので、戦後に民主主義がおきたのである。

 なんのために戦争に勝とうとしているのかが自分たちでもよくわからなくなっているのがいまのロシアだと言えそうだ。勝とうとすることが自己目的化していて、目的と手段が転倒している。戦争で勝ったからよいことにはならないし、負けたからといって必ずしもだめだとは言い切れそうにない。

 負けるものがいなければ勝つこともできないので、勝つことよりも負けることのほうがより意味あいが大きい。勝つことは不思議に勝ってしまうことがあるけど、負けることには不思議はない。野球の野村克也氏はそう言う。

 戦争の勝ちと負けは、修辞による定義づけや、かたよった分類づけによることになるだろう。日本では、戦争でじつは日本は負けてはいなかったのだと言われるのがあるけど、勝ったか負けたかは定義づけや分類づけによるものだから、負けに定義づけや分類づけしないこともできる。負けたことを認めない。むりやりにやればそうできる。

 定義づけや分類づけをはずして見てみれば、戦争に勝ちも負けもないと言えるかもしれない。みんな負けているとも言える。勝ちや負けは意味(sense)だけど、意味がないことだとも言えるから、戦争は無意味(nonsense)だともできる。

 交通でいえば、ロシアがものすごく強くて、ウクライナがすごく弱ければ、ロシアが勝つことになるから、ロシアによる(ウクライナへの)一方向の単交通だ。ウクライナは現実にはそこまで弱くはなくて、それなりに力を持っているようだから、ロシアによる単交通が必ずしもなりたっていない。

 はっきりと勝ちと負けを区別することができないのがあり、勝ちと負けのあいだに引かれる線が揺らいでいる。勝っているのか負けているのかがよくわからない。勝ったのか負けたのか、どちらか一方だけに定めづらい。

 負けることがだめだとは言い切れず、勝つことがよいとは言い切れないのがあり、何が何でも勝とうとすることがよいことだとはいえないのがある。ロシアは何が何でも勝とうとしているから、科学のゆとりが欠けている。

 勝ちさえすればよいとは言い切れないのに、勝つことに大きな価値を置いてしまっているのがロシアだ。勝つことよりも、科学のゆとりをもつことのほうがずっと重要なことだ。科学のゆとりが欠けていると、手がらを得るのにあせってしまい、失敗をまねきやすい。すぐに手がらを得ようとあせっているときは、それがわざわいすることが少なくない。

 参照文献 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『科学的とはどういうことか』板倉聖宣(きよのぶ)