ウイルスの検査数がじっさいの感染者の数字を正確にうつし出していないのはなぜなのか―顕在と潜在

 検査数がほんとうの数字を映し出していない。ウイルスの検査が行なわれて、一日のウイルスの感染者数が報じられるが、それがほんとうの感染者数の総数とはなっていない。専門家はそれを言っていた。

 なぜ日本では新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染をしらべる検査が行なわれていてもそれがじっさいの数字をそのまま映し出さないのだろうか。

 顕在(けんざい)と潜在の二つに分けて見てみると、日本ではこの二つがずれてしまっている。顕在と潜在がともに等しく見られていない。

 おもてに明らかになっている顕在と裏にひそんでいる潜在の二つを分けることが日本ではきっちりと行なわれていない。この二つをきっちりと分けるようにして、潜在しているものをできるかぎり顕在化して行く。その動機づけ(motivation)が日本の政治には欠けているのがある。

 ものごとをできるだけ知らしめようとはしていないのが日本の政治にはあるので、潜在しているものは潜在したままにしておこうとすることが少なくない。潜在しているものをわざわざ顕在化しておもてにわかる形であらわして行こうといったことが行なわれづらい。

 潜在しているものをおもてに顕在化すると、政権にとって都合が悪い。人々に不快感を与える。政権に都合が悪かったり人々(多数派など)に不快感を与えたりすることから、潜在しているものはへたにおもてにわかる形に顕在化して行こうとはしないことが多い。

 おもてにあらわれていなくて、裏にひそんでいて潜在しているのは、それが無いことを意味しているのではないから、潜在しているものつまり無いものとは言えないのがある。そうであるのにもかかわらず、潜在しているものつまり無いものとしているのが日本の政治にはある。

 すでにあることがわかっているのは顕在だ。顕在はあくまでも氷山の一角にすぎないことがある。日本のウイルスの感染のありようではそうなっているのがあり、検査の結果として出ている数字は顕在だが、それとは別に潜在においてきちんと調べられていないものが含まれている。

 家でゴキブリが一匹いるのを見かけたら、そのうらには何十匹のゴキブリがいることをおしはかれると言われている。じっさいに目視できた一匹のゴキブリは顕在であり、そのうらにいる何十匹のゴキブリは潜在だ。ゴキブリを見つけることでいえば、日本の政治はじっさいに目視できた一匹のゴキブリだけをとり上げているのに等しい。そのうらにある何十匹のゴキブリをとり上げようとしていない。

 民間の自動車の会社のトヨタ自動車で行なわれているように、改めるべきところをどんどん見つけて行く。改めるべきところをどんどんおもてに顕在化して行く。目に見える形にして、それをどうするのかを探って行くのである。

 日本の国の政治は、トヨタ自動車のあり方とは逆であり、ものごとをどんどん隠して行く。改めるべきところをどんどん見えなくして行く。どういうところにどういうまずさやおかしさがあるのかをおもてに顕在化して行こうとはせずに、できるだけ人々に知らしめないように隠す。いろいろな穴におおい(cover)をかけているのである。

 日本のウイルスの検査がほんとうの感染者の数字を映し出していないのは、穴が空いているところにおおいをかけているからである。検査を行なうのは、穴が空いているのを見つけて行き、おおいをとり外して行くことだが、それを中途半端にしかやらないことによって、逆におおいをかけることになっている。おもての顕在とうらの潜在にずれがおきることになる。

 参照文献 『ホンモノの思考力 口ぐせで鍛える論理の技術』樋口裕一 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『問題解決力を鍛える 事例でわかる思考の手順とポイント』稲崎宏治